我が家の末娘は稀少遺伝子疾患のアンジェルマン症候群です。あまり知られていない障害ですが、娘と家族の歩みをご紹介することで障害に対する理解が広がればいいなと思っています。
今回、ご紹介するこの連載は、娘が幼稚園で他害行為を起こすようになって悩んだ末に園の広報で娘の障害について紹介させてもらいたいという思いから始まり、実際に園報にて掲載してもらった内容を再編集したものです。
詳しい経緯やその時の思いは>>【ライフハック】きっかけは幼稚園での他害行為。娘の障害について広報で連載開始
はじめに
娘うららの幼稚園の園報にて、わが子の障害について連載をさせてもらうことになり、以下のことを最初に書きました。
まず誤解を招かないようにひとつだけ。わたしには「娘が障害児だから特別視してください!」という気持ちは全くありません。ただ、世の中の全ての人が健常ではないということ、障害者がこの世の中でみんなと同じように普通に生きているということを少しでも知っていただければそれで十分だと思っています。
そして、少しでも多くの保護者の方々に読んでいただければ、娘も私も幸いです。どうぞよろしくお付き合いください。
うらら誕生~2歳/障害を受け入れるまで
妊娠・出産は異常なし、乳児期の成長は「ちょっとゆっくり?」
うららは平成23年1月に我が家の4番目の次女として産まれました。
妊娠から出産まで特に異常もなく、いたって普通に誕生しました。
既に3人の子どもを育てていたので、まさか我が子が障害を持って産まれてくるなんてみじんも考えていませんでした。
乳児の時期は、「ちょっとゆっくりかな~?」という程度で、上の子どもたちの子育てと大差なく感じていました。
1歳になる頃から気になり始めた異常
まず気になったのは、
- 両目の斜視(両目とも外側に向いてしまう。なかなか私と目があわない)
- つかまり立ちはするものの、足の裏をしっかり地につけることができず、全く歩く気配ない
- 1歳頃にはできるであろう手遊び等が一切できない
日が経つにつれ、さすがにちょっとおかしいと近所の小児科、眼科、整形外科を受診。
すぐに、神奈川県立こども医療センターへ紹介状が出されました。
そして、そこで初めて「お母さん、この子は何か障害があるかもしれません」と告げられました。
一番つらかった診断がおりるまでの日々
この日から、実際に障害名の診断が下るまでの1年弱が、親として最も不安で辛く苦しい時でした。
診断を待つ間、そして診断がついてからのしばらくは、「なぜ?」「どうしてうちの子が?」という答えのない自問自答の繰り返し。
それから「(母である)私の何がいけなかったの?」そしてわが子に対して「申し訳ないことをしてしまった。普通に産んであげられなかった。」という自責の念。
それから、最も考えたくない将来のこと。「(親である)私が死んだらこの子はどうなるの?」
そんなマイナスの思考サイクルから、なかなか抜け出すことができず、パパが出勤し、上の子供たちが学校に行った後、うららを抱きしめながら、毎日毎日、嗚咽するほど泣き続けました。
「女の子なのに、普通に結婚して子供を産み育てるという当たり前の一番幸せなことをこの子の人生から私が奪ったのだ」と。
負のサイクルから救ってくれたのはうららの笑顔
でも、結局、この苦しみから救い出してくれたのはほかでもない、うららでした。
泣いている私に寄り添い、ニコニコと私に笑いかけ、「一生懸命、生きているんだ」と伝えてくれているようでした。
「障害があって可哀想だ」とか、「申し訳ない」とか、そんなことはただの私の価値観であって、「この子の命を否定しているのと同じじゃないか」と思うようになりました。
今思えば、きっとこの時から私は娘の障害を受け入れることができたのだと思います。
それからは、「どうすることがこの子にとって一番良い道なのか?」「どのように育てれば良いのか?」を考え始め、病院で色々質問したり、ネットで情報を集めたりするようになりました。
2歳になって療育開始
2歳になってからは、横須賀市療育センターの未就園児のクラスに入り月1回~週1回通い、その後、ろう学校にも通いだしました。
言葉ではなかなか難しいコミュニケーションを補うために写真カード*を作ってみたり、手話の勉強をしてみたり…。
前向きにうららの人生を共に歩いて行こうと決めた時期でした。
続きはこちら>>【手記】うららちゃん、どうしたの?わが子はアンジェルマン症候群(後編)
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