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【手記】耳が聞こえる体に生まれたかった・・・。父が綴る双子の難聴娘の物語

今回、お届けするのは、時間を遡り、また大胆に時軸を飛び越え…、という趣向を凝らした構成で綴られたゲスト投稿者・twinDefDadさんの手記です。

【自己紹介】小学5年生双子の難聴娘、中学2年生健聴兄の父親。内臓年齢は見た目年齢プラス20以上、健康に気を使う大きいおじさん。

耳が聞こえる体に生まれたかった …小学3年(2014)

いつか、そういうことを言うかもしれない、とは思っていた。障害児の親にとっては辛い一言。それを言われたらどうやって返答しようかと、話し合ったり、考えたり、悩んだり、さらには自分を責めたりする気持ちになる人もいるだろう。

 

そしてその時は、唐突にやってきた。

 

ある日の朝、学校へ行く前の普段と変わらず慌ただしいドタバタの中、1人いつものようにマイペースで準備をしている姉。

「お母さん、どうして私を耳の聞こえる体で生んでくれなかったの」

一瞬あっけにとられる。どういう文脈でこの言葉が出てきたのか、今から思い返してもさっぱり思い出せない。ただ、やはりこの時が来たのかという思いと、成長して自分のアイデンティティを模索するようになってきたんだという納得感、妙な落ち着きの中である種の嬉しさまで感じてしまったのはおかしなことだろうか。意外なほど落ち着いて対処している妻の姿の方が不思議だった。そんなこと言われたら、取り乱しちゃうかもしれない、などと言っていたのに。

おそらくこの一言を発することは娘にとっても勇気のいることで、だから日常のひとコマの中で何気なく発したのだろう。その背景には我々両親に対する信頼感、こんなことを言っても突き放したりせずに自分を受け入れてくれるという感覚があったからこそという解釈をしている。

 

生きているということ …小学2年(2013)

「障害のない体に生んで欲しかった」と言われたら、「障害のない体に生んであげたかった」と思うのが正直なところ。しかし「生きている」というのは大変なことなんだ。私はそれを実感している。

この言葉を言われる前年(2013年)のこと。
長男は小学5年生、双子の娘たちは小学2年生、私は三途の川の渡し場まで行って戻ってきた。緊急手術からICUへ、その後、入院生活と自宅療養を経て約1年後にやっと社会復帰。心臓の3分の1が動かなくなったのだから、生活上の規制は様々ある。障害者の認定を受けたわけではないが、少し立場は近くなったように思う。この経験があって、何気ない日常生活でさえも幸福に感じる機会があることがよくよく分かった。そして、この日を境に私にとっての最重要事項は「生きること」になった。子供たちが自立するまで、孫ができるまで、とにかく前向きに生きていくことを心がけて。

 

インテグレーション …小学1年(2012)

ろう学校か地域の小学校か、それぞれにメリット・デメリットがある。

難聴児にとって、そして2人の娘にとっても、ろう学校はとても心強い存在。

  • 境遇の近い子供たち
  • 少人数で目の行き届いた授業
  • 先生たちは難聴児の特性を把握している
  • 幼稚部から通っているので慣れている

その一方で…

  • 健聴者との接点が少ない
  • 大人数で生活する機会が少ない
  • そのため社会生活に出るのが遅れる

地域の小学校はその逆だと言える。

 

インテグレーションとは

インテグレーションというのは、障害児に健常者と同じ学校で教育を受けさせることで、当時は「インテ」と略して話をしている人たちの言葉を聞いて「?」が浮かんでいた。

ろう学校も幼稚部の年長になると、どこの小学校に通うのかという話題が出てくる。うちの場合は「補装具で何とか聞きとれる」という直接要因の他、「2人であること」「先生の薦め」「ろう学校の支援」「早く社会生活に馴染ませたい(親の意向)」といった要因もあり、地域の小学校へ通うことにした。

 

さて、入学してみた後どうだったかというと…

  • ろう学校から小学校へ情報提供をしたり(逆もあり)
  • ろう学校の先生が小学校で出張授業をしたり
  • 小学校ではクラス編成や座席の配慮があったり
  • 小学校の先生が積極的にマイク等の補装具を活用したり
  • 友達が指文字を覚えて聞こえない時に教えてくれたり

といった具合で、学校に行きたくないという素振りをみせたことがない。ただし、これは様々な場面で条件的に恵まれていた結果のようだ。

道は様々、だから悩ましい

どちらの学校を選ぶか、まだ本人が決められる年齢ではないので、結局は親の判断ということになる。調べたり、悩んだり、相談したり、「誰々さんはインテに決めた」と言っては焦ってみたりと、親がプレッシャーを感じる。この選択は非常に重要であり、かつ、それがどうなるかはやってみないと分からないという類のものだ。だから、うちの子どもにとっては正解だったけど、別の子どもにとっては異なる結果になるということもある。それは種々な要因が複雑に絡んでいるから難しい。インテしてみて合わなければろう学校という方法もあるし、とにかく道は様々だと考えている。

 

ICUと保育器からの新生活 …誕生直後(2005)

世の中が何だかざわついている感じがあるゴールデンウィークの直前、双子は帝王切開で生まれた。

直後、娘たちの母親は呼吸困難になり集中治療室(ICU)へ、娘たちは未熟児ということで保育器へ。

何となく気の抜けないゴールデンウィークを過ごした。「未熟児だと障害児になりやすい」と言われれば、まあそりゃそうだと思うけど、2人が元気に動いている姿を見るだけでも感無量。保育器から出て抱っこできるようになった時は、生まれてきた喜びと、これから始まる寝不足の日々に思いを馳せたものだった。

 

新生児スクリーニング …1か月(2005)

難聴の頻度は、1,000人に1~2人と他の障害に比べて多いとか、生まれた病院で数千円で検査することができるとか、もしこれで難聴を発見すると早期に対応を取れるようになる(検査しないで4~5歳まで気づかない人もいる)とか、そんな話があった気がする。

退院後1ヵ月くらいだっただろうか、静かな暗い部屋の中で2人の子供を寝かせて検査を受けていると、我々両親もすぐに眠りについてしまったことを今でもはっきり覚えている。

そんな眠気も一気に覚める「ちょっと反応が弱いようです」という検査技師からの一言。薬の効きが強くて眠りが深いのかもしれないとか、そういうフォローがあったのだが、どんな言葉よりも検査結果が雄弁に物語っている。病院のスタッフがどんな慰めを言ったところで所詮このままパスにならないことは確定なのだ。

こども医療センターなるものの存在を知ったのもこの時が初めてだった。最初に検査を受けた病院は地元では相当大きく施設も整っている病院であったが、再検査はこども医療センターで受けることになった。セカンドオピニオンと言うのか、それとも子どもを診断するのはこども医療センターの方が優れているからだったか、はっきりとした理由は覚えていない。いずれにしても新生児スクリーニングは、その場ですぐに白黒がつくようなものではないということだ。一縷の望みを抱えて、再検査に臨む。

 

新たな世界 …幼稚部卒業まで(2011)

トクソウケンと言われて、ピンと来る人の方が少ないだろう。

国立特別支援教育総合研究所、略して特総研というのが横須賀の久里浜にある。それから横須賀にはろう学校もある。こども医療センターに行った結果、特総研とろう学校にお世話になることになった。難聴だという診断がなされ、身体障害者手帳を交付されると、やはりそうなんだという実感は深まる。

こども医療センターが言うには、特総研は最近新たな患者(研究所だから被験者が正しいかな)の受け入れは行わない方向だが、地元で便利だし、双子だし、紹介するから行ってみてはというような話があった気がする。ある人が言うには、特総研は研究所だからモルモットにされるという話も聞いた。まあそうであればそれでも構わない。我が家にとっては過去の研究成果を活かしてもらうことができるし、先方にとっては双子という検体の調査と、その結果を未来に活かすことができるのだから。

特総研は確かに研究所だった。

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ある時は、すべり台、ボール、人形、模型等が置いてある部屋で、娘たちの遊ぶ様子を観察する。別の時には、補聴器を外して様々な音を聞かせて反応を見る。検査が退屈だった時は体育室みたいなところでトランポリンで遊ぶ。先生はとても穏やかで、悪い気分にさせるようなことがない(某病院のとある医師は患者を不快させることで有名だが、それとは全く違う)。これがモルモットの実態ならば歓迎だ、娘たちは楽しんでいるのだから。

結局、特総研には数年間通い、その中でろう者の世界について徐々に知ることとなった。

ろう学校は確かに学校だった。

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なんか変な表現だけど、やはり特総研とは目的が違う。教育の場、つまりは将来1人の人間として社会生活を送れるような知識、習慣を身につけたり、身体を作るということが前提にある。乳幼児のうちから毎日のように通うというのも、健聴者の中に交じって生きていく下地作りをするためなのだろう。事実、ろう学校への通学があったことで、小学校生活がスムーズに送れるようになったと言える。

それと、ろう学校ではろう者の親に対する教育もあり、もうひとつは親同士のコミュニティでもある。境遇の近い仲間がいるということ、そのようなコミュニティがあっていつでも受け入れてくれるということ、しかも無償であるということ。娘たちは地域の小学校に通いながら、今も定期的にろう学校へ通っている。

 

食べちゃったけど大丈夫 …幼稚部(200X)

「ギャーどうしよう。口に入れて食べようとしていた。」というメールが届く。

娘のどちらかが何か毒になるものを口に入れちゃったのかと思った。「取り出して乾かしてみたんだけど。」というのが続報。といっても平日の日中だったから気づいたのは夕方になってからだけど。慌てふためく妻の様子が容易に思い浮かぶ。その後、ろう学校に電話したらしく、わざわざ先生が自宅まで様子を見に来てくれたということだ。どちらかというと、妻の動揺をケアしに来てくれたような雰囲気がある。

  • 水分や湿気がつかないようにして下さい。
  • 毎晩、乾燥材の入ったケースに入れてから寝て下さい。
  • 時々、専用の乾燥機に入れて電源入れてメンテナンスして下さい。

というような注意を受けていたから、手作りのカバーを付けて、専用の置き場を作って、といったように非常にデリケートに取扱っていた。まだ新しいうちに壊れたらと考えると確かに平静ではいられないだろう。5センチ程度の大きさに最新の技術が詰まっていて、値段はスマホの倍くらいする精密機器。

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補聴器に慣れるのは大変だった。

幼いころから付けるようにしたほうがよいのは分かるが、耳に入れられるのはいい気持ちはしないだろう。むしり取り、振ってみたり、投げたり、口に入れたりと、まだ歩くことのできない乳児に、その機器の有用性が分かるわけがない。やがて自分から積極的につけるようになった時、やっと実感したということだ。何年間も粘り強くやり続けた妻の頑張りが報われた。

 

デフリンピックに出てみたい? …幼稚部、小学2年(~2013)

ろう学校幼稚部の時に知った。とても歴史のある大会で第1回は1924年フランスで開催された。オリンピック、パラリンピックではなく、デフリンピック。デフはろう者のこと。

きっかけは、ろう学校に来た先生がデフリンピックへの出場経験があったからだ。日本代表選手の講演を聞いたり、一緒に走ったりする機会も作ってくれた。そのうち1人の選手は大学生で、本人の生い立ちから現在に至るまでの具体的な経験を交えて話してくれた。すごく自信に充ち溢れていて、それでいて決して横柄ではない、爽やかな青年だった。これを聞いたお父さん、娘たちも出場しないかなぁとちょっと思ったり。

少し時は流れて2013年、ブルガリアのソフィアで夏季デフリンピックが開催された。この大会には上記の先生だけでなく同じろう学校に所属する高校生が出場し、それぞれ銅メダルと銀メダルを獲得した。この様子を家族揃ってテレビで見た時には興奮し、喜んだ。「君たちもデフリンピックに出てみたい?うん。絶対出る。」と言ったかどうかは忘れたけど、いつか日の丸をつけて出場することをひそかに期待している。

 

伝える、伝わるというのは意思のこと …日常のひとコマからの気づき

耳が聞こえない人たちと接してみると、情報の伝達は方法ではなく意思こそが重要だということが実感として分かる。娘たちは補聴器を使用することで日常的な会話は何とか聞き取ることができる。だからといって健聴者が聞こえるようには聞こえていない。私は特総研で難聴者がどのように聞こえているかを疑似的に体験させてもらったことがある。その時は、普段耳にしているようなクリアな音ではなく、ザーザーやジージーという音の中で、少しかすれたような声が聞こえてきた。つまり、この状態では、小さな声でしゃべっていると何か言っているということは分かるが、何を言っているのかは分からない。

では、どうすれば何を伝えようとしているのかが分かるのかというと、

  • 面と向かって口を大きく開く
  • 1語1語をはっきりと発する
  • 大きな声(ある程度の音量)で話す
  • ゆったり(ゆっくり)話す
  • 顔の表情やジェスチャーを併用する(手話も含む)
  • 筆記用具を使う

という具合になる。

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▲磁力を使っていて、書いてはボタンひとつで消すことができる『かきポン』という道具です。

特に最近感じるのは、ノンバーバルコミュニケーションの重要性

妹は姉と比べて聴力が弱いこともあり、テレビを見ながらの会話とか、家族や集団の中でのクロストークのような場面では1人だけ聞きとれないことがよくある。

「何、何、もう1度言って」ということになるのだが、兄姉は、面倒くさいような表情をしたり、わざと分からないように話したりという意地悪をすることが時々ある。そうすると、私は上記に列挙したような方法で説明する。

それでも何度か聞き取れなかったりすると、娘は分かったようなフリをしたりする。そのような場合は、得てしてこちらの伝えようという意思が弱かったりするのだが、娘はそれを感じ取っているのかもしれない。

難聴者は、相手に悪いと思って、分かったフリをすることがあるそうだ。私も何度かやっているうちにフリをしていることに気付くようになったのだが、それは娘の表情や声音というノンバーバルコミュニケーションから判断している。彼女はとても素直で真っすぐな性格なので、本当に分かった時には目をキラキラさせて声も「うん」とか「そうか」とはっきり発する。分かったフリをしている時は逆に曇った目をして、気のない返事をしている。聞こえているけど意味が分からないということも多々あるのだが、その時も様子は同じだ。

一方、全く会話が成り立たない場面でも意図が伝わることがある、それは補聴器を付けることができないお風呂の中での対話。声は全く聞こえないにも関わらず、伝えたいことは伝わる。

こうして振り返ってみて、伝える側、伝わる側の双方が伝える意思を持ってコミュニケーションをとることが重要だということに改めて思い至る。発信側に伝えようという意思があるか、受信側に意味を正しく理解しようという意思があるか。娘とのやり取りから大事なことに気づかせてもらった。

 

双子ならではの支え合い …全般

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一体どのくらいの期間を一緒に過ごすことになるのだろう。

文字通りお腹の中にいる時からずっと一緒に育ってきた。このまま中学校までなのか、高校以降も同じ学校へ行くのか。とにかく、今思うのは2人だったことがどれだけ心強かったかということ。

仲間外れになるのではないか、学校の勉強についていけないのではないか、先生やクラスメイトの話が聞こえなくて行くのが嫌になるのではないか。そんな不安もあったけど、仲間である姉または妹が近くにいる、勉強が分からない時には聞ける、聞こえない時には手話で知らせてくれる。そうやって支え合ってきた。

小学校に入学する時、聞こえへの不安があり、あえて同じクラスにしてもらうようにお願いした。本人たちもお互いに一緒がいいと言っていた。

別々のクラスで長い時間を過ごすのは小学校2年生の時が初めてだった。この頃はまだ、素直に離れ離れになることへの不安を表現していた。「○○と一緒じゃないなら行かない」とか、ちょっと離れると「○○はどこ?」という言葉を聞いた。同じものを持ちたいという気持ちが強く、1人だけが持っていると嫉妬したりする。服や持ち物も同じもので異なる色か近いデザインを好み、そうでないと揉めたり、奪い合ったりという具合だ。

そして高学年になるにつれて、相手と違うことをやろうとしたり、自分が主導権を握ろうとしたり、という場面が多くなってきた。1人を置いてお父さんと2人で出かけることもできるようになった。果てはどっちが先にトイレやお風呂に入るのか、起きた後どっちが先に1階へ降りるか、というようなことで腹を立てたりする。また、服や持ち物については自分の好みがはっきりしてきて、相手が持っているものを欲しがることは少なくなった。

こんな風に、成長し自我を確立して行こうとしているんだと喜んでいたところ、今年は何クラブに入るかという話になった。「何がいいかなぁ。家庭科部かな。」という妹。「まだ決めてないけど、スポーツ部がいいかなぁ。」という姉。あれ、前は家庭科部って言っていた気がするのにと思ってちらっと見てみると、どうやら駆け引きをしている様子。そう言えば、去年はお互いに「家庭科部に入ろう、一緒に。」という感じのやり取りだったのに、今年は自分から言おうとしない。どうやら先に「一緒にやろう」と言った方の立場が弱くなるらしい。後々何かがあった時に「お前が一緒にやろうって言ったから入ってやった」ということだろう。こういうやり取りの裏で、本当は一緒に入りたいというオーラを噴き出しながら、実はお互いのことは先刻承知の上ということだ。その場でははっきりと何にするかを言わずに登校した2人、帰って聞いてみると揃って家庭科部に入ったとか。

段々と離れて過ごす時間は多くなっていくけれど、相手のことはよく分かっている。そして、何かがあった時には支え合うことができる。自然とそんな関係になりつつあるように感じる。

2016.05
ゲスト投稿者・twinDefDad

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『自分たちが足りないと思うこと、欲しいと思うものを自分たちで作り上げていく』を現実に!夢を1つずつ叶えるために!
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