体外受精でやっとの思いで授かった息子は重症心身障害児でした。
やりたいことを自由にやって生きてきたあたし。息子が生まれて物事に対しての考え方や価値観がいろいろと変わりました。
今は5歳になった息子と旦那と80の母との賑やか4人暮らし。自宅もバリアフリーに改装中。
今回は不妊治療から出産、そして今に至るまでを手記にまとめてみました。
ペンネーム通りのがらっぱち、文章だってがらっぱち!でも最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
やっぱりキツイよ不妊治療!
結婚したのは30歳だったけど、避妊をしなければいつでも子供ができると思い込んでいたあたし。朝から晩までバイト三昧で好きなように生きとったあたし。
34歳頃そろそろ子でも作ろうかと思い、励みましたがいっこうに授かる兆しがない…。
35歳になってやっとこ病院に通いだし、始めはタイミング療法で通ってはみたけど、やはり空振り三昧。医者にも年齢的にも体外受精をすすめられたんだよね。
「科学の力を借りないといけないのか…」と、その時、少し目の前が暗くなって、そこからまた出口のない迷路に入ってしまった毎日。
誰に頼まれたわけでもなく、自分で、そして夫婦で話し合ってやってみようと決めたけどキツかった。
卵子は採れたには採れたけど、受精させて、ある程度培養して、戻すまでのもどかしさ。
そしてやっとの思いで子宮に戻しても着床せず…。
ほんと、何十万もかけたのに、やりきれないよね、誰にも頼まれてないのにね。
ほんと、勝手にやさぐれてましたあたし。
妊婦さんがほんっとに羨ましかったぁ。
不妊治療のサイトなんかを毎日毎日、見まくってましたね、ほんとに自分は妊娠できるのか、ただそれだけの気持ちだけで生きてたなあの頃は。
でも、幸いなことに2回目の受精卵で妊娠。ちなみに1回目は卵子に精子を振りかけて授精したもので、2回目は顕微授精といって、卵子に直に精子を注入したものだった。
待望の妊娠!そして妊娠5ヵ月目、医者から告げられたのは…
妊娠確定してからは気分も一転
近くの総合病院の産婦人科にせっせと通ってエコー写真もらって感動して、近所のおばさんにも、「よかったね、体大事にしてね!」なんて声かけてもらって。でもそこで謙遜かバカなのか、あたしは「五体満足に生まれてくるか心配です」なんてよく言ってた。舞い上がり過ぎないよう自分に発破かけるような気でいたんだよね。
そしたら、ある日、あれは妊娠5ヶ月に差し掛かる頃だったかな、先生がエコーを見ながら唸ってるんだよね。
あたしはこどもになにかがあるのかなんて少しも疑いもしなかった。自分の身にまさか、そんなことが降りかかってくるとは思いもよらなかった。
でも先生は、
「うーん…お腹の赤ちゃんね、ちょっと頭が大きいんだよねぇ。脳室っていうのが大きいの。あとね、指がね、6本あるみたいなんだよね。ちょっと、こども医療センターに紹介状を書くから、検査に行ってみて。もし、何ともなければまたこっちで通ってここで生めばいいのだから」と言った。
あたしはそんなことを言われてもその時はまだ全然気にもしていなかった。ちょっと心配だから行ってみるくらいの感覚でいたんだ。
こども医療センターで告げられた「水頭症の疑いあり」
そして、こども医療センターに行ったあの日、夏だったから汗かきかき行ったのをよく覚えてる。
旦那もついてきてくれて、なーんも考えず能天気に行ったけ。
でも、こども医療の先生にエコーを診てもらって、とりあえずの見解を言われ、またここで目の前が真っ暗に。
先生は
「多分、水頭症でしょう。あと、多指症かもしれない。それで、羊水も多いって報告があるから、飲み込みが悪くて他にも何かあるかもしれない。ちょっと検査入院しましょう」
って。
行きは弘明寺駅からバスで行ったけど、帰りは弘明寺まで歩いて帰った、泣きながら。
人目なんか気にもせず、ずっと泣きながら歩いてた。
旦那が何やら慰めてくれてたけど、もう、なにがなんだか!
受け止めきれなくて、なんであたしが!なんであたしが!って。
それから、こども医療センターの産婦人科に1週間弱くらい検査入院した。
今はエコー写真で4Dがあるらしいね。その時は3Dしかなかったけど、そのエコー写真初めてもらったときは、もう、うれしくて、うれしくて、かわいい生命が写ってた。
そして検査の結果は、やはり先生の見解通りだろうということで、その後の検診も出産もこども医療センターでということになった。
- お腹の子に障害がある
- 今わかっているのはおそらく水頭症、多指症
- そしてまだなにかあるかも…
そんな状況で、知り合いに「妊婦さん、おめでとう」って言われても、もちろん「実はお腹の子には…」なんて言えるわけもなく、友人に言っても受け止めてもらえるわけもなく。
でも、日々お腹の子は育っていくわけで、ものすごく元気に蹴ってくるんだよね。時に伸びをしてるのかな、「ムギュー」ってなるからそんなときは障害のことは忘れかけていたな。
帝王切開で出産、初めての抱っこ
頭が大きいので、予定帝王切開で出産した。お腹から出てきたときには、「6本ですか?!両手指6本ですか?!」ってのがあたしの発した最初の言葉。
そして初めて抱っこしたときは、やっぱり、「うちに来てくれて、ありがとう」だった。
そのあとは直ぐにNICUに連れてかれた。いろいろ調べるためだろう。
同じ病室の人は赤ちゃんがベッドにいるけど、私の赤ちゃんはここにいないので、同室の赤ちゃんの泣き声を聞きながらエアトントンしてたなぁ。トントン、トントントン…
生んだ翌日には新生児専門の先生と遺伝科の先生に呼ばれてお話を聞かされた。
- 羊水の量が多いということは飲み込みが悪いかもしれない
- そうすると、予後が悪いかもしれない、腎臓も大きいとかも言われてたけれど、どちらも特に心配することはなさそうだ
- これから成長していく中でどんな障害があらわれてくるかわからない
- そして、これから定期的にこども医療センターに通わなければいけない
…ということも告げられた。
私は、心のどこかで、「生んでみたらどこも大丈夫だった」ってことを期待していたのだ。
だけど、「この子はやはり障害からは免れられないんだ」と絶望の縁に立たされながらも、「これからどうしたらいいんだろう」って思いが溢れて、先生方の前で恥ずかしげもなく泣いた。
覚悟の足りない母親と思われても仕方ない、悲しいものは悲しいとさめざめ泣いた。
翌日に母子同室になれたので、お地蔵さんみたいな蛙みたいな赤ちゃんがあたしのすぐ横にいるのが本当に信じられなくて、可愛くて、不気味でくすぐったかった。
そりゃ泣けるよ、泣けてくるよ!そんな時、旦那がひとこと…
こどもがまだお腹にいたときは、「明けない夜はある」という気持ちで、毎日泣いてばかりいたので「お腹の子によくない」と家族によく叱られた。
でも、だって、泣けてくるよ。そんなこと思いながら、知りながらも生むなんて。
同級生で同じ時期に体外授精して、うちよりちょっと先に生まれた子にはなんにも異常はなかったのに、なんでうちなんだよ!なんであたしの赤ちゃんなんだよっ!!て、心の狭いことよく考えてたよねぇ。
退院してからも、首の据わりがが遅いとか成長や発達が遅いとか、全てに不安の毎日で、あたしが「この子がかわいそうだ」って泣いてると、旦那が
「この子は自分がかわいそうだなんて思わないよ」
と言った。
その瞬間は「なんじゃそりゃ?!」って思ったけど、しばらくしてちょっと「なるほど」と思った。
あと、“発達障害”って言葉を調べるのがこわかった。認めなければいけないけれど、やはり認めたくなかったから。
旦那が、こどもがお腹にいるときから、そして生まれてからもよく言ってたのが、
「発達障害かもしれないけど、この子は“未知数だ”」
って。
あたし、神様でも医者でもないこの旦那の言葉にすがってたなぁ。
この子はゆっくり巻き返すかもしれないって。巻き返してくるんじゃねぇかって。
無知って、こわいよね。
巻き返してなんかこないんだよねぇ。
まあとにかく障害児ってことを受け止めるのにけっこう時間かかりました。どこかで奇跡が起きるんじゃないかって本気で思ってたしねぇ(笑)
【手記】おっす!おれ、がらっぱち!息子は重症心身障害児[後編]に続く…