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【手記】お料理とオシャレが大好きな知的障害を伴う自閉症の5歳女子・A2のくーちゃん

私の小さい頃からの夢はお嫁さん。

綺麗なお嫁さんになって、素敵な王子様と結婚。そして、可愛い赤ちゃんを産んで、おばあちゃんになったら孫たちに囲まれて楽しく幸せに暮らすんだ!

これが私が小さな頃から頭に描いていた夢でした。

そして、福島からお嫁にやってきた私。お仕事して、結婚式を挙げて、その後は赤ちゃん…ライフプランはばっちり!実際、その流れの通りにことは進みました。

マタニティライフも順調そのもの

悪阻も軽く、大きなトラブルもなく赤ちゃんも元気。幸せいっぱいで、食べ過ぎで15キロも太ってしまったほどww

里帰り出産の予定を立てていたので、出産予定日の4月に向けて、お正月から福島の実家にお世話になることにしたのですが、ここでまたひとつ私の夢が叶うことになりました。

それは、

自分の生まれた病院で、赤ちゃんを産むこと

これも私の中の夢でした。

しかし、それが実現することはありませんでした。

娘が生まれたのは、2011年4月。そう、あの東日本大震災のあった1ヶ月後です。

東日本大震災発生時、そしてその後…

地震発生時、その時ハマっていた韓国ドラマを母と観ながら、私はうきうきと病院へ持って行く準備品を揃えていました。

ぐらぐらと突然大きな揺れがやって来ましたが、臨月だった私はうまく歩くことができず這うようにして外に出ました。
車に一時避難し、テレビをつけて初めて、事の重大さを知りました。私は動悸が止まらず、地震で揺れる中お腹の赤ちゃんに「大丈夫、大丈夫…」と声をかけ続けました。

・・・

次の日、病院で診察があり、「赤ちゃんは元気、大丈夫だよ」と言われてほっとひと安心。そして、助産師さんからは「原発のこともあるから横浜に戻って産んだほうがいい」と言われました。そう、当時、私は横須賀ではなく、横浜に住んでいたのですが、それまで診てもらっていた横浜の病院に戻りなさいと言われました。でも私は福島のこの病院で産みたいという強い思いがあったし、「原発からは離れてるんだし大丈夫」と思って、家に帰りました。

家に帰ってテレビをつけると、水素爆発の映像が流れていました。原発から距離はありましたが、その日、雪が降っていた私の実家の地域に放射性物質が風で運ばれてしまい、濃度が高くなっていました。

日に日に高くなる放射能の数値…

震災から1週間。

横浜に帰ることを決めました。横浜の病院に電話をかけ、再度、受け入れを了承していただき、パパに迎えに来てもらうことになりました。母も連れて、無事横浜に着き、パパと2人で病院に行きました。

母の前では強がってしまう私ですが、車の中で仕事で福島を離れられない父を置いてきてしまったこと、福島で産みたかったことを考えて、号泣してしまいました。

でも、横浜の病院の産婦人科の方々は、そんな私をあたたかく受け入れてくださり、本当にありがたかったです。

・・・

その後、無事に普通分娩で出産することができました。いきみ過ぎて20針近くも縫いましたが、改めて横浜で無事出産を終えることができて、よかったなと思いました。

何事もなく過ぎていく幸せな毎日の中で…

娘がとても可愛いくて、日々の成長が嬉しくて、記録も毎日欠かさず付けていました。

ただ、くーちゃんは…

  • よく泣くなぁ
  • ずっと抱っこ、もしくはずっとおっぱい
  • ママが大好きだなぁ
  • 私から離れない、離れるとぐずぐず泣き止まない

そんな甘えん坊な子でした。

1歳児健診でお尻のくぼみを指摘、こども医療に…

1歳児検診の際に、お尻のくぼみを指摘され、こども医療でMRIを撮り、診てもらう機会がありました。

その時に言われたのが、身長、体重が月齢よりも低めだったのでフォローで通いましょうということ。その時は特に変わった様子はなく、身長体重以外は月齢通りの成長でした。

「あれれ??」と思い始めたのは、1歳3ヶ月頃…

  • 最近、目が合わないなぁ
  • 呼びかけの反応が薄い
  • 言葉っぽいのもないなぁ…

でも私は、まさか自分の娘に何かあるなんて思ってもいなかったので、

「くーちゃんはゆっくりさんだなぁ、まぁこれからこれから」

なんてのんきなことを考えながら毎日を過ごしていました。

市の1歳半健診でも、言葉の遅れ、指差しがないことを指摘されました

当時はこども医療にも1ヶ月に1度通っていたので、そちらに相談してくださいと言われ、こども医療の先生にも相談していました。「言葉の教室通う?」と言っていただいていたにも関わらず、私は断っていました。

そのうち、先生のお話が「言葉の教室通う?」から「療育相談センター行こうか?」に変わっていき…それでも私は「まだ様子見ようかな」なんて拒否を続けていました。

「療育相談センター行こう!」と渡された紹介状

でも、くーちゃんが2歳になる頃、とうとうこども医療の先生に「療育相談センター行こう!」と紹介状を出されてしまいました。

その時、横須賀に家を建てている最中だったのをいいことに、私は「今行ったら中途半端になっちゃうし、引っ越したら行けばいいや!」なんて先延ばしの言い訳を考えていました。

2歳を過ぎ、どんどん周りの子と差がついて行く一方で、

  • 後追いが激しい
  • 私が離れるとすぐ泣く

というくーちゃんと一緒にいることで、家事が何もできない状態が辛くなり、横須賀に引っ越した後、実家にしばらくの間、お世話になることにしました。実家にいる間は母に頼ることができて、私はとても楽だったのですが、療育相談センターに行くことに関してはまだ心の中でモヤモヤしていて、考えないようにしていました。

母や父と過ごす中で

  • やはり言葉が出ない
  • 目が合わない
  • 反応が薄い
  • よく泣く

というくーちゃんの心配について家族に何度も指摘され、「うるさいな!私だって分かんないよ!」と大きな声を出してしまうことも多々ありました。

テレビを観ると静かにしていてくれることもあったので、テレビをよく観せていたこともあって

  • テレビ観せ過ぎたかな
  • 話しかけが足りないのかな
  • 私の努力が足りないせいだ

などと落ち込むこともありました。

認めたくなかった自閉症、姉や友人との関わりでちょっとずつ…

私には姉がいて、いつも相談事といえばなんでも姉に話していました。

そんな姉との話の中でも、『自閉症』『知的障害』というワードは出ていたので、自分でもうすうす自閉症か知的障害かも…と思っていました。

そこで、障害のある子と関わる仕事をしている保育士の友人がいたので、相談がてらくーちゃんも一緒に食事をすることにしました。

その食事の席で、初めて自閉症がある子は知的障害を伴うこともあると知り…心にグサッと何かが刺さりました。そしてその時、くーちゃんはテーブルの周りをくるくる回っていて、同じ場所をぐるぐる回ることも自閉症の子にはよくあると聞きました。

なんとなく覚悟がついた時、ネット検索で涙

なんとなく覚悟がつき、その日帰省で福島に帰ってきていた姉にそのことを話すと

「やっぱりくーちゃんのためにも療育相談センターに早く行った方がいいよ。早期療育が大事なんだよ」

と言われたのですが、姉もいろいろ調べてくれていたようでした。

今まで避け続けていた『自閉症』という言葉を、夜中みんなが寝静まった後、ネットの検索欄に入力してみました。
恐る恐るページを開くと…

  • 物を並べる
  • 小石を側溝に入れ続ける
  • ジャンプする

…あぁ、娘は自閉症なんだ。障害児なんだ…と、涙が最初すーっと出てきて、その後は、ぽろぽろぽろと止まらなくなりました

くーちゃんは結婚できるかな?恋愛できるかな?

次に頭に浮かんだのが、

「あれ、くーちゃん結婚できるのかな、赤ちゃん産めるのかな…」

女の子なのに、お年頃になったら恋愛して結婚して赤ちゃん産んで、、私は女の子としての楽しみをこの子に与えてあげることはできなかったのかと思うと胸が張り裂けそうになり、寝ている娘に向かって「ごめん、ごめん、ごめん」と謝りながら抱きしめました。

泣き疲れて寝たら気持ちがすっきり、よし頑張れる!

それから私は泣き疲れて寝てしまいましたが、起きたらなぜか気持ちはスッキリ。

「横須賀に帰ろう!帰ってくーちゃんのためにできることを始めよう!」

それまで避けていたことを受け入れたせいか、気持ちはかなり前向きになりました。

姉にくーちゃんの療育を頑張る旨を伝えると、

「私がいろいろ調べてあんたに教えるから!あんたはくーちゃんべったりで忙しいし、見たら辛くなることもあるだろうから」

と言葉を掛けてくれ、今もいろいろ調べては、この記事良かったよ、こんなグッズがあるみたいだけど、といろいろ教えてくれます。

横須賀市療育相談センターでの相談スタート

横須賀に帰ってからは、療育相談センターのお世話になることになりました。

先生からは「知的障害を伴う自閉症」という診断名をもらい、ぺんぎん教室+月1回の心理に通うことになりました。

最初の頃は、療育相談センターに向かう車の中で暴れ、DVDプレイヤーを壊されたりもしましたし、教室でも座って居られず、泣き続け、ずっと私が抱っこで…ママが泣きたいよと辛くなるときもありましたが、ソーシャルワーカーさんの支えもあり無事通うことができました。

現在は療育相談センターのひまわり園の年中さん

そして現在は療育相談センターひまわり園の年中さんとして週5日通っています。

長期休みなどは、児童デイサービスを利用しています。

去年1年は、年少ということで親子で週2回通園する親子クラスから始め、児童デイサービスなどにコンスタントに通い続けている成果もあってか、今では見違えるほどになりました!

  • 座って活動に参加
  • ジェスチャーで表現(ちょうだい、ありがとう、あいさつ)
  • アンパンマンを描く
  • 身辺自立(着替え、ご飯を自分で食べる→何故かひまわり園だと家では食べない野菜を食べるww、歯磨き手洗い等…)
  • お友だちへの興味
  • 絵カードや写真などでの見通し

加えて、今はOT(作業療法)にも通い、お箸やハサミの練習中。

普通の5歳の子になら、当たり前にできることかもしれませんが、くーちゃんにとってはこれはすごい躍進!!毎日先生やデイのスタッフさんが書いてくれる連絡帳が楽しみです。

娘の成長はみんなのおかげ、毎日噛みしめる感謝

娘がこんなに成長できたのも療育相談センターの先生やワーカーさん、ひまわり園の先生たち、デイのスタッフの方々のおかげです。

普通の人から見たら「???」な娘の行動も、明るく笑い飛ばしてくれてすごく暖かい気持ちになります。感謝しても感謝しきれません。

ひまわり園で知り合うことのできたお母さま方もです。私が落ち込んでいると声をかけてくださり、何度励まされたことだろうと。今現在も元気をいただいています。

ここで言わせてください、「いつもありがとうございます!」

私や娘は本当に恵まれた環境にいるんだなと日々しみじみ感じます。

そしてなんで早く来なかったんだろうと、早期療育の大切さを身をもって知りました。

言葉はまだです。オムツもとれていません。でもとてもとてもゆっくりですが、娘ができることが増えていっているのが、今はすごく嬉しいです。

お料理もおしゃれも女の子だもん、とことん楽しむ!

そして、娘がとてもとても可愛いです。

オシャレや可愛い髪型、着せ替えシール、お料理など大好きでとても女の子らしいです。障害があっても女子をじゅうぶん楽しんでいるじゃないか、ママ余計な心配しちゃったなと最近は思います。(サザエさんや、温泉旅行が好きという渋い一面もありますがww)

最近のマイブームはフルーチェを作ること!

毎日のようにボールとフルーチェを持ってきて、アピールをして来ますw

私はこぼさないか、はらはらしてちびっ子シェフの助手をしています。

・・・

最近は人混みや大きな音が嫌いなど新たな苦手も出てきたりと悩みは絶えませんが、少しずつ娘の成長に合わせて、今できることをやって行こうと思っています。

小さい頃の私が今の私を見たらなんて言うんだろう、私の夢は叶ってる?と聞きたいです。

あの時描いていた夢とはイメージは少しずれてしまったかもしれませんが、今のところ順調ですww

2017.02
ゲスト投稿者・うさぎのめろんさん

・・・

ひまわり園ではsukasuka-ippoメンバーと顔なじみ。sukasuka-actにもこれまでご参加いただいている愛されキャラのうさぎのめろんさんが今回は手記を書いてくれました。以前のact参加時の発言をまとめたこちらも併せてご覧ください!

関連記事>>【sukasuka-act.02】我が子の障害、どう受け止めた?[娘は年中5歳、知的障害を伴う中度の自閉症/うさぎのめろんさんの場合]

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うさぎのめろん

自閉症、6歳になった娘のくーちゃん。お料理やオシャレが大好きなお年頃女子です。温泉が大好き!銭湯に出没率高し!!な母です。
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