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【取材File】県立保健福祉大学名誉学長・阿部志郎先生の貴重な講演を全文掲載|新体制へバトンタッチ!子どもをみんなで守る社会を目指す『モモの会』30周年記念イベント@横須賀

1987年に5名の重度知的障害児の親が横須賀で立ち上げ、子どもたちの遊ぶ場と機会を作る活動を続けてきた「モモの会」が2018年5月に30周年を迎え、総合福祉会館で記念イベントを開催しました。

モモの会とは■1987年に5名の重度知的障害児の親が立ち上げた親の会。
■障がいがあってひとりで遊べないので、学校から帰って、一緒に友だちと遊ぶ機会がほしいと(社)横須賀基督教社会館の学童保育「キリングループ」に入会。
■まだ、放課後の障害児の制度がない中、社会館の協力を得て、「総合保育」を実践するため誕生した、親の自主運営グループ。
■ 以来、30周年を迎えた今日まで、メンバーの成長に合わせてさまざまな交流イベントを企画・運営し、活動を続けてきました。
■「モモの会」の名前の由来は、効率優先の現代社会を風刺したドイツの作家 ミヒャエル・エンデの小説『モモ』。前代表|小松 恵美子
現代表|四分一知佳(2018年就任)

 emikoo66lmomo@docomo.ne.jp

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program.01|
「モモの会」前代表・小松恵美子さんのあいさつ

今から30年前、障害児の親である私たちはとても困っていました。

小松さん 今から30年前の1987年、モモの会の親たちはとても困っていました。それは重度の知的障害を持つ私たちの子どもたちが学校から帰ってから遊ぶ場がなく、お友だちもいなかったからです。

その頃は学童保育すら少なく、まして、重度障害児がいる学童保育はありませんでした。

重度の知的障害児の放課後の居場所をきりんグループに求めたのが原点

小松さん わたしたちの子どもはとても重い障害を持っています。

  • 自ら言葉で伝えられない
  • 身の回りのことも周囲の方にお手伝いを必要とする

という子どもを育てる5名の親が、田浦にある基督教社会館にある学童保育「きりんグループ」に自分たちの子どもも参加させてほしいとお願いにいったのが「モモの会」の始まりです。

普通ならたぶん「気持ちはわかりますが、無理です」という回答が返ってくると思うのですが、きりんグループはわたしたちの要望をそのまま受けとめてくれました。

社会館の阿部先生やスタッフが「否定ではなく工夫」という精神で、どうしたら親の思いを実現できるかを一緒に考えていただき、親は自主グループを作り、社会館の協力を得て「統合保育」を進めました。

結果、学童保育では親の期待以上の育ち合いが実現

小松さん 当時は親も若かったので、夏休みには杉林に行ったりするなど、よく遊びました。

  • きりんグループとモモの会のスタッフ
  • 主婦ボランティアさん
  • 地域の皆さん
  • 学生ボランティアさん

など、学童期の多くの方との出会いとサポートが統合保育を確実なものにしていきました。

中学・高校期は社会館から出て地域へ。イベントを通して広がる出会い

小松さん 田浦に借りた「モモの家」を活動の拠点に、近所のお店に買い物に行ったり、海水浴に行ったりして、活動の幅が更に広がりました。

活動のお手伝いはボランティアセンターにお願いしていましたが、当時、2名の通信学校関係者が、お手伝いに来てくれ、次に来る時にそれぞれお友だちを連れてグループで来るようになり、最後は自衛隊のみなさん60名が参加してくれるなど、人と人が出会いで繋がり、イベントを手伝ってくれる人の輪が広がりました。お手伝いの手が増えることで、他団体さんをお招きするなど、よりオープンに、より多くの方にイベントに参加してもらえるようになりました。

全ての活動・出会いの真ん中にいるのが障害児

小松さん 子どもたちが成長し、成人になる頃には、

  • Jリーグ観戦
  • 乗馬体験
  • ヨット
  • 乗船

など、街の中にどんどん余暇活動の場を広げていきました。

現在は中学生から39歳までの、重い障害をお持ちの方から自立型の方まで計12名の障害児者が継続的に交流し、多くのボランティアさんなどにお手伝いいただいて、年に数回、大きな交流イベントを開催しています。

モモの会には、過去も現在も「指導員」という立場で関わる人がいて、プロフェッショナルな視点で全体を見回して活動を提案し支援します。歴代、そういう方が6名いらっしゃいましたが、それぞれの時代に適任の方々と出会えたことが、モモの会にとって大きな幸運であります。

▼過去の開催イベント

【ミニ運動会】ボランティアさんと一緒に体を動かして遊ぼう!「モモの会」主催のスポーツイベント『モモスポ2017』in馬堀小学校体育館 ※締切間近
知的障害児・者の余暇活動グループ「モモの会」より、スポーツイベント『モモスポ2017』 のお知らせです! どんなイベント? 障害をもったお子さんと、ボランティアさんがペアになり、一緒に体を動かすミニ運動会です。 ・陸上自衛...

違いを越えるにはマンパワーが必要!県立福祉大学の学生さんとの貴重な出会い

小松さん さらにありがたいことに、県立福祉大学の学生さんと出会ったことがきっかけで、その学生さんたちが学内でボランティアを募集して遊びに来てくれるようになり、子どもたちは同じ世代のお兄さん・お姉さんと友だち感覚で関わる機会を得ることができるようになりました。

そして、迎えた30周年。ここからまたモモの会を通して人の輪が繋がっていくことに期待しています。

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program.02|
県立保健福祉大学名誉学長・阿部志郎先生の講演

阿部志郎先生のプロフィール県立保健福祉大学名誉学長であり、発足のきっかけとなった横須賀基督教社会館の会長でもある阿部志郎先生は、日本の地域福祉の先駆者です。福祉のこころを地域の人、子どもたち、専門職の方などに広げています。

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グリム童話・神様がくれた全ての動物の寿命のお話から

阿部先生 神様が全ての動物の寿命を30年にしようとお考えになりました。

まずロバを呼んで、ロバに「おまえの寿命を30年にする。」
と言いますと、ロバは「背中に重い荷物を背負わされ、もっと働け、とお尻を叩かれながら過ごしています。それは辛いことなのです。寿命は短くて結構です。」そこで神様はロバに18年の寿命を与えました。

犬が来ました。「お前は走り回ってばかりいて、長生きしたいだろう。」と神様。犬は答えました。「走っている間はいいのです。歳を取って歩けなくなったら部屋の隅に追いやられて、ウーウー、ウーウー、唸り声をあげるだけ。長く生きたいとは思いません。」神様は犬に12年の寿命を決めました。

次にサルが来ました。「お前は遊んでばかりいるから長生きしたいだろう。」と神様が言うと、サルはこう答えました。「とんでもございません。私は人間どもに芸能を仕込まれ、それを見せなければなりません。道化の背後に悲しみがあることをご理解いただきたく存じます。寿命は短ければ短いほど良いのです。」神様はサルに10年の寿命を与えました。

最後に人間がやってきました。「お前の寿命は30年だぞ。」という神様に、人間は「えー!?たった30年ですか?私たちは働いて、家族を養わなければなりませんし、家も建てなければなりません。たった30年では足りないので、寿命を延ばしてください。」「そうか、それでは更に18年与えよう。」「18年では、まだ働いている間にこの世とおさらばしなければなりません。」「仕方ない、12年やろう。」「12年いただいても、働き終えてやっと余生を楽しもうという時に死ななければなりません。もう少し加えていただけませんか。」「ではこれが最後だ、10年もおまえにやろう。」人間は不平たらたらで神様のもとを去っていきました。

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グリムがこの童話を書いた頃、ヨーロッパ人の寿命はまだ30歳でした。なのに、グリムは人間の寿命を70年と想定した。人間が70年生きるためには、動物が犠牲になるということを示唆していたわけです。

「いただきます」に込められた感謝と形式化しつつある現在

食事をするときに私たちはどうしますか?

世界には色々な作法がありますが、わたしたちは「いただきます」と言います。世界広しといえども食事の前に「いただきます」という言葉を使うのは日本だけです。

この「いただきます」という言葉には、

  • それを揃えてくれた両親家族に対する感謝
  • それを作ってくれた農民・漁民・生産者に対する礼
  • 動植物の命を戴くことへの感謝

が込められています。食事が終わると「ご馳走さま」と言います。「馳ける」「走る」という言葉にあらわされるように、食事を作るために走り回ってくれた人への感謝をあらわしています。

このように、私たちの先祖は長いことかけて私たちに対して、

  • 命に対する畏れ
  • 自然との共生

を教えてくれてきました。

ところが最近、学校給食でクレームがきました。給食費を払っているのに、どうして子どもに「いただきます」と頭を下げさせるのかと。それを受けて、「いただきます」と一斉に言うことをやめた学校があります。

「いただきます」という言葉がいつの間にか形式化されているということなのでしょうね。「いただきます」は命に対する感謝です。

命は誰からもらったもの?偏見にさらされてきた障害者

阿部先生 昔から言われてきた言葉に「身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く あえて毀傷せざるは孝の始めなり」という教えがあります。これは、両親からもらったこの身体を傷つけることは親不幸の始まりだという意味です。

障害を持つということは親不孝。かつての日本社会では恥とされてきました。

また、「健全な精神は健全な体に宿る」と申しました。障害を持つことは親の責任だろう、いや、本人の責任かもしれないと。

こうした考え方により、親御さんがどれだけ苦労してきたことか。障害者とその家族は、かつてそのような偏見にさらされてきたのです。

命を授けてくれたのは誰?日本語には訳せない『スピリット』の概念

阿部先生 老人ホームの中に、盲人だけの老人ホームがあります。そういう法律ができて、今年でちょうど50年です。

今、日本には目の見えない老人だけのホームが80くらいあります。仏教の施設が多いようですが、ある施設長が私に「私たちの仕事の根拠は、聖書です」と言いました。そうおっしゃったのは仏教のお坊さんでした。

聖書には、「目が見えない。だれの責任か。親の責任か。本人の責任か。」という問いに「親の責任ではない、子の責任でもない。神様の為せる業(わざ)だ」とあります。障害を持つことも同じです。それは神様が与えた大切な命なのです。

神様がわたくしたちに与えた命を「スピリット」と言いますが、実はこの「スピリット」という言葉は日本語には訳せません。日本にその概念がないからです。

スピリットというのは、神様が人間を作り、命を与える時に人間の鼻から命の息を吹き込んだ。それにより生けるものにした。それが「スピリット」なのです。

神様がひとりひとりに与えてくれたもの。それを私たちは長いこと誤解をしてきました。

例えば、私の母親も老人性痴呆で死にましたが、精神病というのは心の病です。心が病んでも、魂は美しいのです。だれであれ、魂は美しい。

心を患った人が帰れる場所が日本にはない?

阿部先生 ある日本の精神医学の大家が言いました。「精神病として生まれると2重の苦しみがある。ひとつは精神病を持って生まれたこと。もうひとつは日本で生まれたこと」だと。

現在、約32万人の方が精神病院に入院しています。その2/3の方は1年以上入院しています。

しかし、ヨーロッパをみてください。精神病院はありません。心を患ったら、みんな地域に帰っていく。地域の人々が受け入れてくれるから、精神病院は要らないのです。

残念ながら、私たちの社会では精神病を受け入れません。だから、精神病院に入れなければいけない。

胸に刺さった障害児の母親の言葉

阿部先生 かくいう私も障害に対して長いこと誤解を持ってきました。

今から60年前、障害児に出会いました。ひとりのお母さんが相談に見えたのです。部屋に入ってくるなり、壁に向かって子どもをおんぶしたままの姿で泣いていました。

朝、バスに乗って背中の子どもをおろし、肩を抱いて2人で座っていたところ、次の停留所から同じ年頃の健康な男の子を連れた見ず知らずの母親が乗ってきて向かい側に座ったそうです。その健康な子がいたずらっ子のようで色々と悪さをする。母親がそれを叱るけれど、おそらく乗客の冷たい視線が注がれていたのでしょう。その母親は「そんなおいたをするとお前もああいう子になるよ!」と障害児を指さしたのだそうです。

「わたしはこの子のために大抵のことは耐えてきましたが、今朝は泣かずにいられません」と言ったその母親の言葉が、私の胸に突き刺さったのです。

障害児の仕事をしようと思ったのは私の贖罪

阿部先生 親は、自分の子を良くしたいのです。他人の子ではなくて、自分の子だけを大事にしたいのです。

自分の子だけを大事にして障害児はないがしろにする、私は「そんなおいたをするとお前もああいう子になるよ」と言った母親の姿を私の中にも見たのです。それはわたくしの罪です。障害児の仕事をしようと思ったのは、わたしの罪の贖いです。

ただ、障害児のために仕事をしようと思っても簡単ではありませんでした。この横須賀のどこに障害児がいるかわからないのです。当時、児童相談所にも福祉事務所にも全く情報がありませんでした。

子どものために指をなくしたレントゲン科の林医師との出会い

阿部先生 ただ幸いなことに横須賀市立病院に林先生というレントゲン科の先生がいらっしゃいました。

今のレントゲンと違い、当時のレントゲンは撮影するのに50秒もかかったのです。そのレントゲンを撮るのを子どもたちは嫌がります。そういう時、林先生は子どもと一緒にレントゲンに手を差し込みました。

そうして、何十人、何百人と一緒にレントゲンを撮り続けた林先生の指は、両方とも2本しかありませんでした。最後は指を全部失くし、ついに左手を切断しました。

なのに林先生はニコニコニコニコしていました。この先生が横須賀で初めて障害者の団体を組織したのです。

カルテを元に作った名簿で家庭訪問

阿部先生 林先生は病院にいて私は待合室で待っていて、整形外科にかかる障害児の名簿を作り、それに従って、家庭訪問をしました。

でも、訪ねてみても多くの場合、「うちの子のことで困ってなんかいません!」「うちにはそんな子はいません!」追い出されました。

それでも諦めず、林先生が呼びかけて保育園を作りました。20人の父兄が集まり、そのうち4人の希望があり、障害児の保育を始めたのです。

制度がなかったため、どこからの援助も受けず、保育園を8年間続けました。

ぶつかった2つの問題、それは資金不足と就学免除による壁

阿部先生 ところが、ふたつの問題にぶつかりました。我々のような小さなところでは、子どもをたくさんみられないのです。当時1800円の月謝をいただいていましたが、実際は1ヵ月5000円かかっていました。

もうひとつの壁は、子どもたちが学校に行けないというものでした。

当時、教育委員会は就学免除として学校に障害児を入れなかったのです。でも、子どもたちは「学校に行きたい!」と言います。しかし、私にもどうすることもできなかった。だから、県や市を呼んで、実状をみてもらいました。でも、制度がないのでどうすることもできなかったのです。

市長に届いた「僕、学校に行きたい」という障害児の声

阿部先生 最後に当時の横須賀市長・長野正義氏(第19代|1957~1973)に来てもらいました。

その時、一番年上だった中学2年生の子は、市長に「僕、学校に行きたい」と訴えました。その晩のことです。市長が「お引き受けします」と電話をくれました。

その結果、平作の上にある障害者センターが建ったのです。制度がなかったので、国も県も金を出しておらず、様々な反対を押し切って、市で建ててくれました。

あれから時を経て、障害を持った子どもたちに対する理解が深まり、横須賀でもようやくこうやって人が集まるようになったことは嬉しい限りです。

迷子になったマイちゃん。意外な子どもの反応に教わったこと

阿部先生 障害を持ったお子さんを育てる保護者のことを思い出すと、昔、学童保育に通ってきていた「マイちゃん」が頭に浮かびます。

マイちゃんが、ある日、迷子になりました。その知らせを受けたモモの会やきりんグループのお父さんたちも晩御飯を放り出して駆けつけ、マイちゃんを探しました。その後、マイちゃんが新横浜で見つかったと連絡がありました。

大人はこういう時、「どうしてもっとちゃんと見守っていないのか」と責めますが、マイちゃんの学童保育の友だちは違いました。子どもたちは、「マイ、すげーな!」「ひとりで行ったのかよ!」「おれも行きたいな!」と憧れの対象としてマイちゃんを見ました。

この時、私は学びました。大人には、そういう発想がないのです。大人というのは子どもを守り監督するものと思っていますが、子どもたちにとって、マイの行動はすごいものだった。そういう発想をわたしたち大人は大事にしなければいけないのです。

成人式に集まった1200人の前でオーケストラの指揮をしたひろしくん

阿部先生 横須賀市の成人式にひろしくんが呼ばれたこともありました。

当時は荒れている時代でしたので、1200人の若者が集まっても市長の話など誰も聞かない。そんな成人式でオーケストラの演奏があったのですが、1分間だけそのオーケストラの指揮をするという役にひろしくんが当たったのです。

ボランティアに付き添われてひろしくんが指揮台にのぼりました。そんなひろしくんの姿を見て、みんな笑いました。ひろしくんのお母さんの話によると、ひろしくんは毎日、FMでクラッシック音楽を聴いていました。オーケストラの音楽は全部知っているのです。そして、見事に1分間、指揮をしました。驚いたのはオーケストラです。そして、みんな拍手をしました。このように、1200人の若者を注目させることは私にはできません。

これらのエピソードからわかるように、わたしたちは彼らから多くのことを学びました。お互いに成長していかなければならないと思います。

ドイツにある障害児者とその家族・職員が集まるベテルの村、

阿部先生 ドイツにベテル(Bethel)という村があります。7,500人の障害児者とその家族、職員が集まる10,000人の村です。

昭和30年代に自身も重症心身障害児の親である作家の水上勉さんが障害児問題を世に問いました。政府は対応を迫られましたが、厚生省で対応できず、内閣の官房が対応することになりました。

その際、「ベテルをモデルに日本に第2のベテルを作りましょう」と約束し、調査団が組まれ、できたのが群馬県にある「のぞみの園」です。当初は100万坪と言いながら、実際にできたのは50万坪ですが、大きな施設ができました。※今度、閉鎖することになったそうです。

子どもたちが使う真っ白なシーツに表れるケアの質

阿部先生 このモデルになったベテルに私も参りました。

150年前に始めてたボーデルシュヴィングの墓を中心に、そこで働いた独身の女性たちの墓地になっていましたが、そこに『ベルーフ』という文字がありました。これはどういう意味かというと、「天から与えられた職業=天職」という意味だそうです。私たちはそこで墓参りをしながら、天職の意味を考えました。

そして施設を見学。そこの子どもたちが寝かされているシーツは真っ白でした。そこでのケアの質が高いことは、それでわかりました。

年間予算を知らなかったベテルの村長に気づかされたこと

阿部先生 そのあと、施設長である村長さんが私をお茶に呼んでくれました。私だけが白人ではない参加者でしたが、視察団の団長が私の大学の先輩で大事にしてたこともあり、村長の隣の席に団長が私を座らせてくれました。その時、村長さんが私の顔を見るので、話題を何も用意していなかった私はつまらない質問をしました。

「ここの年間予算はいかほどでしょうか?」

日本の施設でこの質問をすると、どこでも正確な答えが返ってきます。

でも、そのベテルの村長の答えは「知りません」と一言。そこで私は質問を重ねました。「予算をご存じなくてどうやって経営しているのですか?」と。

すると、反対に「あなたは予算がわからなければ施設の経営ができませんか?」と村長に問われました。私の胸の中には「当然だ」という答えがありましたが、その場では口に出しませんでした。

そのあとの会話は団長が引き取ってくれましたが、私はそれ以来、ずっとその質問の答えについて考えていました。

そして後日、村長に手紙を書き、「あなたがおっしゃりたかったのは、福祉というのは金があるからするのではない。しなければいけないことがあってするのだとおっしゃりたかったのではありませんか」と問いかけました。返事はありませんでしたが、本だけを送ってくれました。

福祉は生きている問題

阿部先生 わたしどもの仕事は、どうしても法律や制度に縛られるのです。その中で仕事をしていれば、財政的にも安定します。だから、なかなか枠から出られない、出ようとしないのです。ドイツのベテルの村長が私に言いたかったのは「福祉はそういうものではない」ということではないかと私は思います。

福祉は、何人入所して、何人退所したというような数量や予算で捉えがちです。実際に、社会福祉協議会の地域活動計画も作りましたが、人口10万人あたりに老人ホーム1つというような計算をして契約もするのです。

でも、福祉というのは生きている問題です。次から次に生まれてくるニーズに対応しなければならない質の問題だと私は考えています。

神の子、脆弱な子と呼ばれる障害児

阿部先生 ベテルの近隣の町では、障害児が歩いていると「あっ、ベテルの子がいる!」と人々が言うくらい、ベテルは有名になりました。ベテルとは「神様の家」という意味であり、つまり障害児は神様の子なのです。

私たちの若い時分、日本では、知恵遅れの子を白痴・痴愚(ちぐ)・魯鈍(うどん)」などと3つの分類をしました。知恵遅れの子は、鈍くて愚かだと決めつけたのです。

アメリカでは、そういう子を何と言うかというと、「脆弱な子」と言い表します。脆弱というのは、風邪をひいて3日休むとそれはもう脆弱なのです。それと同じレベルで障害を捉えているのです。

障害を持つ子はベテルの子です。神様がくれた大切な命です。

モモの会は、子どもを守る会ではない。市民文化の実現のために

阿部先生 モモの会30周年、よくやってくれましたね!

これまで代表を務められてきた小松恵美子さんの顔の若々しいこと!モモの会、子どもを守る会だとは思いません。子どもをみんなで守る社会にするための会だと思います。それが市民文化なのです。

今から63年前の1956年、横浜でマリアンヌちゃん事件が起こりました。父親がスウェーデン人、母親がアメリカ人。娘と3人で日本滞在中に、不幸にして両親が病気に倒れて亡くなってしまい、国際孤児となったマリアンヌちゃんを養護施設が引き取ることになりました。スウェーデンからマリアンヌを引き取りたいという申し出がありましたが、日本とは当時、協定がなく、結局裁判になりました。

1人の孤児に対して養育を希望するボランティアが100名いるスウェーデン

阿部先生 その裁判に参考人として出廷したスウェーデン総領事が「スウェーデンには1人の孤児に対して養育を希望するボランティアが100名います」と言いました。その言葉に、私はびっくりしました。日本では100人いてもそのうち何人が孤児の養育を申し出るか…、大きな違いがここにはありました。

スウェーデンの公園に行くと、遊具があるのは日本と同じですが、全て木製です。材料を提供するのは行政ですが、作るのは地域の住民が組み立てるのです。

これが市民文化です。私は、これからこうした市民文化を開いていく、子どもたちと一緒にいかに市民文化を作っていけるかどうか、そこに期待をしています。

子どもたちと共に社会・文化を開く努力を!

阿部先生 インドの詩人・タゴールがこんなことを言いました。「全ての子どもは神様が人間に失望していないことを伝えるメッセージであり、使者である」と。そのメッセンジャーである子どもを中心として、わたしたちは神様を失望させないように、子どもも大人も皆が並んで一緒に歩いていける、そんな社会をつくらなければなりません。それが市民社会だからです。

どうかみなさん、これから子どもたちと一緒に新しい社会と文化を開いていく努力をしようではありませんか。

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program.03|
バルーンパフォーマンス by Syotaro

メモSyotaro‘s Profile県大在学中にモモの会と出会い、ボランティア活動を行う。現在は「バルーンアートでAnimateな瞬間を提供する」をミッションに、バルーンパフォーマーとして活動している。(Animate= ”イキイキとした”)


▲会場内を縦横無尽に駆け回りながら、バルーンアートを披露していきます。


▲指名された来場者が壇上に並び、一緒にバルーンダンス!大人も子どもも楽しくフリフリ。

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次世代にバトンタッチ|
モモの会の新代表・四分一知佳さん

四分一さん 前会長の小松さんとお話をする中で、「モモの会の想いを次世代に繋ぎたい」というお話をいただきましたので、古き良きを今に合った形にして長く繋げていければと思い、お引き受けいたしました。

この度、30年を迎えたこのモモの会が、これから30年後もキラキラと輝いているように、障害のある方とそのご家族、地域の方々、今日ここにお集まりいただいた方々や一般社団法人sukasuka-ippoの皆さん、私の所属するよこすか何でもやんべぇ~会など、みんなで繋いでいけたらと思っていますので、どうぞご協力・ご支援をお願いいたします。

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会食|
『うどんカフェ うせい』の焼うどんの他、美味しいおもてなしがズラリ

当日午前中にコミセン調理室で130人分のお料理を作ったのは…
・奥田氏(横須賀馬堀出身。元ホテルシェフ。現在は茅ヶ崎社協でボランティア活動してます。)
・料理ボランティア3名
・モモの会の親

大きなピザを斡旋してくれたのは…
・昨年の交流会に来た日本語の分からないサンタの〇さん
・そのお友だち

焼きうどんを用意してくれたのは…
・うどん カフェ うせい

 

うどんカフェ うせい
■自閉症で、久里浜特別支援学校の卒業生である静(しずか)さんが店主を務めます。
■もっちりとした手打ちうどんが人気です。
facebookページ(外部リンク)

https://www.facebook.com/useicafe/ 

クッキーとマドレーヌの提供は…
・つばさ作業所

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モモの会の基本情報

代表| 四分一知佳(しぶいち ともか)
mail| moegi-mama@ezweb.ne.jp
LINE ID|moegimama
携帯|080-5047-8064
※代表は日中仕事のため、メールまたはLINEで連絡していただけると助かります。

モモの会に参加するには…
① まずは代表にご連絡ください。
② 会員になったら
・月に数回の頻度で活動のお知らせがあります。
・会費は月1000円(半期ごとに6000円徴収)です。
※活動によって食事代や交通費等の実費負担があります。

モモの会のメンバーと一緒に活動してくれるボランティアも募集しています!
興味のある方は、代表までご連絡ください。

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sukasuka-ippo代表・五本木愛の視点

モモの会が30周年を迎え、感謝の集いに参加させていただきました。

歩みが始まった30年前というと、私は中学生くらい。当時のことを思い返しながら、30年前がどんな社会だったのか、少し調べてみました。

今から31年前の1987年は、身体障害者だけを対象としていた障害者雇用促進法に、やっと知的障害者が加わった年だと記載されていました。まだまだ知的障害者に対する理解も薄く、法律も整わず、知的障害者は精神薄弱者と呼ばれていた時代です。

地域の小学校・中学校の支援級についても、今のようにどの学校にも設置されていたわけではなく、また、名称も「特殊学級」と呼ばれていたそうです。今のように「特別支援学級」と呼ばれるようになったのは2006年のこと。まだ、12年しか経っていないのです。

そんな当時の時代背景を考えると、充分に情報もない中で、協力し合いながら学童における統合保育を進めてきたことは、本当にすごいことだと思います。

今、私はsukasuka-ippoの活動を通して、たくさんの先輩保護者の方々とお話する機会があります。
モモの会の小松さんをはじめ、障害者団体の方、保護者として事業所を立ち上げて進んでこられた方々。みなさんに共通しているのは子どものために、これからのために、という想いです。

私たち、sukasuka-ippoもまだまだスタートしたばかりではありますが、大先輩方と同様にその想いを大きな原動力として、障害児者とその家族が地域で共生できる環境づくりを進めていきたいと思っています。


▲2018.04に久里浜商店街でインクルーシブ学童『sukasuka-kids』を開所。貴重な阿部先生の講演をスタッフも聞かせていただきました。

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よこすかテレワーク|
sukasuka-makerで案内ハガキの制作をお手伝いしました

| よこすかテレワーク

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2018.03.31
取材/ 五本木愛・ぼんちゃん・misa・takeshima satoko
見学/ sukasuka-kidsのスタッフ
写真/ takeshima satoko
写真加工・一部文字入力/ ゆっぴー
編集/ takeshima satoko

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