slide-nursery-pc2
slide-kids-pc2
slide-telework-pc2
slide-sarah-pc2
slide-learning-pc
previous arrow
next arrow

【act開催報告/TALK】『きょうだい児、今日もきみの話をしてくるよ』special guest Nagai Yumiさんのきょうだい児TALKを丸ごと掲載/@恵徳苑

sukasuka-ippoがサイトを飛び出し、リアルな交流の場としていろいろな企画をお届けしている『sukasuka-act(すかすかあくと)』。

昨年、『sukasuka-act』で『きょうだい児、今日はきみの話をしてくるよ』の第1弾を開催した際は、普段なかなか話題として取り上げられることのない障害のあるお子さんの兄弟姉妹について、皆さんの親としての思いがあふれ共感の輪が広がりました。

【開催報告】sukasuka-act.03『きょうだい児、今日はきみの話をしてくるよ』/状況は違えど思いは一緒!頷きすぎて首が痛い…

そして今回は、その『きょうだい児』をテーマにした第2弾!

ご自身がきょうだい児である永井由美さんを特別ゲストにお迎えして、徐々に障害が進み、今は寝たきりとなっている妹さんと過ごした幼少から思春期の思い出、きょうだい児の視点から見た家族のかたちとご本人の葛藤について、お話をたくさん聞かせていただきました。

[st-kaiwa1]それでは、永井由美さんのお話を読みやすく手記にまとめてみましたので、ぜひご覧ください。[/st-kaiwa1]

[chapter.01]クローズアップされることのない『きょうだい児』

障害児とその親御さんはクローズアップされることが多いと思いますが、その間にいるきょうだい児については、意外とケアが必要なのに忘れられがち。

集まる場がなかったり、子ども同士でもそれぞれ思いや理解できることも成長段階によって違うので、横の繋がりがなかなかできにくい存在なんだと思うんです。

今回、五本木さんからきょうだい児についてお話をするという機会をいただき、私がきょうだい児として、妹と両親と過ごした日々、その中で親や周りから受けた言葉とその時の気持ち、進学、就職、結婚というターニングポイントでどんなことを思ったかを中心にお話してみたいと思います。

障害に対する偏見多い時代・土地柄

私は、父の仕事の関係で3歳から地方に行きました。

時代もあると思いますが、当時は、田舎に行けば行くほど障害児に対する理解が得にくくて、どうしても偏見が多いというのが実感としてありました。それだけ親は苦労したと思います。

今でも帰省するたびに「ここもだいぶ良くなってきたなぁ」と思うこともありますが、横須賀はそういった面ではすごく理解が進んでるなと思いますし、ハード面も揃っていて、サービス面も充実してるかなと思います。


▲参加者の手元には、永井さんがご用意くださった図式化された見やすいchapter(チャプター)が配られました。

[chapter.02]3歳、妹が誕生。

私が3歳の時に妹が誕生しました。すごくかわいいなぁと思って生活してきたんですが、妹に障害があることに気付いたのは私が小学校に入る前で、ある程度のことが分かる歳でした。

[chapter.03]保育園時代、妹の小頭症が発覚。周囲の偏見のはじまり

妹がてんかん発作…小児科へ相談に

妹は産まれてすぐに障害がわかったわけではありませんでした。

3歳の妹をおんぶしていた母は、時々、ピクピクッと跳ねるような妹の仕草を「喜んでいるのかな?」と思っていたそうです。

でも、それはどうやらてんかんの発作だったようで、その頃、父も「ちょっと頭が小さいような気がする」と言っていたこともあり、小児科に相談に行くことになりました。

色々な検査をしたところ、小頭症という障害だということがわかりました。脳が発達しないので、肢体不自由のほうも付随する障害だというお話でした。

妹に障害があるということで、小児医療センターや支援の場所に私も一緒にお出かけすることが多くなりました。障害のある子たちが常に周りにいっぱいいる環境だったので、私の家だけが特別な環境だという認識が私には全くありませんでした。

近所からの偏見の目。無視をされても挨拶をし続ける母

私が小学校1年生になる頃は、妹もまだ自立の歩行ができていて、一緒に手を繋いで公園に行ったりしていたのをすごく覚えています。でも、それなりの身長があっても、妹は言葉が喋れないので近所の人も「あれ?どうしたのかな?」と何かを感じていたようでした。

うちの母はオープンなので「ちょっと障害があるんです」というお話をしたところ、そこから一気に地域の偏見が始まりました。

誰も挨拶をしてくれなくなり、小学校に入学した1年生の私がランドセルを背負って近所の人に「おはようございます」と声をかけても、目は見ているのに返事はかえってきませんでした。子どもながらに、「このおじさんとおばさん、なんで挨拶してくれないんだろう?」と思っていました。

でも、こうした状況の中で母が貫いたのは

相手が挨拶をしなくても『うちは挨拶をし続ける』

ということ。母はそれを強く主張していました。

私も1年生だから、それがどんなことなのか、よくわかっていないんですよね。挨拶してもらえないことは不思議でしたが、普通に楽しく小学校生活を送っていました。

[chapter.04] 小学校入学。妹の長期入院により母不在の日常

長かった入院生活は4年に…

私が小学校に入学した頃、もともと免疫力が弱かった妹は合併症を併発してしまい、小児療育センターに長期入院することになりました。

母は、病院に任せておけば大丈夫と思うタイプではなく、妹が喋れない分、自分がうまく先生に伝えてあげなきゃ!という思いが強くて、病院に泊まり込んで入院中の妹に付き添っていました。

それは今も変わらず、妹が入院している間、母は父が休みの週末だけ帰宅して、1週間分の食事を作り、洗濯をして、あとは家で休息を取るという生活。

私が小学校に入学したその時から、検査やひどい発作の薬を調整するなどで入院生活が長くなってしまい、結局、4年間くらいそうした生活が続きました。

「お母さんに会いたい」と家を飛び出したり、病院から学校に通ったり…

母が平日はなかなか家に戻れない生活でしたので、母の実家から祖母が来てくれていました。その時の私は「お母さんに会いたい!会いたい!お母さんに会いに行く!」と言って、家を飛び出してどんどんどんどん歩いて行ったんだと後に祖母から聞かされましたが、記憶が全然ないんですよ。

でも、すごく覚えているのは、週末、病院で過ごしていると、日曜日の夜に父がランドセルに授業の道具を入れて持ってきてくれて、翌日、病院から学校まで車で送ってくれたこと。

当時は、遊び場が小児療育センターという生活でしたが、おもちゃはいっぱいあるし、看護婦さんは優しいし、子どもながらに結構楽しくやっていました。

[chapter.05]小学4年生。妹の養護学校入学といじめの始まり

いじめの始まり…心ない言葉に苦しむ日々

妹の養護学校入学を機に、学校でいじめが始まりました。

というのも、私に妹がいることはみんなが知っていましたが、入学式に私の妹はいませんでした。

「妹いないじゃん!嘘つき!」と言われ、
「そうじゃない、養護学校に行ってるんだ」と説明すると、今度は
「お前の妹、身障なんだろ!」って…

4年生くらいというと、いろいろなことをまだ考えられない年齢。そこから、いじめが始まりました。

障害があるってどういうことなのか、生まれながらに障害がある子ばかりではなく、途中で障害児になる子もいる、そういう理解がほとんどできないので、平気な顔で「お父さんとお母さんと、どっちが変なの?」と言ってきたり…。

だから、小学校の時はすごく辛かったです。

担任の先生が設けてくれた道徳の時間…「いろんな子がいる、みんなと同じ」

私は、学校でいじめられていることを母には一切言えませんでした。

母は母で頑張っているのをわかっていたので、言えない自分がいました。休んじゃったら気付かれちゃう…と思い、頑張って学校に行っていました。

当時の担任の先生が佐藤先生っていう男性の先生で、見た目はホント、Dr.スランプ アラレちゃんのせんべいさんみたいな感じで、中身はTHE熱血。

その先生がある日、急に予定を変更して道徳の時間にしてしまいました。私はその理由が分からず「なんで今日は道徳なんだろう?」と思いました。

まず先生は絵本を読んでくれました。タイトルは忘れてしまいましたが、いろんな子がいるけど、みんな同じなんだよという内容の本でした。

そして、読み終わると先生は、クラスのみんなに向かって「この中で眼鏡かけてるやついるか?」と手を挙げるように言いました。そして、「それは障害じゃないのか?」って。「大きいのも小さいのもあるけど、みんながいつでもそうなりうることもあるから」と。

それから、うちの妹について「支援が必要だから養護学校に行ってるんだよ」「みんなと同じなんだよ」ということをクラスに対して説明してくれました。すごく嬉しくて、私はこの日のことを一生忘れません。

帰ってから、先生が今日こんな話をしてくれたんだと母に伝えると、母もすごく喜んでいました。

人間は知らないことや見たことがないものを拒絶する…というか、実は怖がっているのかな?と思います。歩けない子、喋れない子がいる、でも、どう接したらいいのかわからないんじゃないのかな?って…。大人になった今は、そういう風に思います。

深まる理解…友達との関わりの変化

4年生の時はいじめを受けたこともあって、あまりいい思い出がなく、辛かったという気持ちがあります。

だけど、その先生がいてくれたおかげで、周りの理解も深まり、友だちが遊びに来る時も「これ、お母さんがりかちゃんの分だって!」と、妹の分までお菓子を持ってきてくれたりするようになりました。

そういった関わりができるようになって、その後の2年間はいじめにあうこともなく、小学校生活を続けることができました。

本当に佐藤先生には感謝の気持ちでいっぱいです!

[chapter.06]中学校入学。トラウマと葛藤、そして反抗期のはじまり

いじめのトラウマ

中学校に入学すると、2-3か所の小学校が一緒になりますよね。

4年生の時のいじめがトラウマになっていて、妹に障害があるってわかった時にいじめられちゃうんじゃないかな…という心配がありました。兄弟の話を友だちがしていると、話を避けたり、話題を変えたりしていました。

いちばん嫌だったのは英語の授業

英語の授業って、最初は家族の単語から始まりますよね。

ファミリーから始まり、順番に例文を作ってく授業がありました。生徒同士で質問をし合ったり、兄弟がいる人は兄弟の好きな食べ物は何ですか?というようなものでしたが、「My sister〜」という言葉を使って、自分が発表する番になったら嫌だな、早く家族の単元、終わってくれ!って思いながら生活をしていた記憶があります。

正しくみんなに理解してもらいたいと思いながら、私がそういうふうに妹のことを隠したいと思ってるのって、自分が妹を認めてないみたいで…そういう自分もすごく嫌でした。

思春期で自分のアイデンティティーが形成されていく中だったので、常に葛藤しながら、怖さと後ろめたさと、その両方を抱えていました。

父に対しての疑問、そして反抗期

中学生になってからも、妹や母が所属している障害者の会やサークルのイベントなどに私も変わらず参加していました。

でも、その頃になると、私にも外の世界がだいぶ見えてきて、そういう集まりの場に出てくるお父さんと出てこないお父さんがいることに気づき始めました。

そして、うちの父は出てこないタイプの父親だったので、父に対しての反発心っていうのが当時は半端なかったです。母だけが苦労しているように見えて、なんでお父さんはもっと協力しないのかな?と思うこともあり、反抗期もすごかったです。

毎日、「なんで手伝わないの!?」みたいな手紙を父に書いていました。父と口をききたくなかったので、父が帰宅する車の音が聞こえると「お母さん、この手紙、お父さんに渡しといて!」と手紙を母に預け、私は2階に上がっていました。

後から聞いたら、母はその手紙を父には渡していなかったみたいですが…笑。

父なりの葛藤

父が障害のある妹のことを受け入れるには時間がかかることを、母はわかっていたんだと思います。

父は養護学校の運動会にも1回も来たことがありませんでした。「1度でいいから来なよ」と私が言って、やっと来たことがあります。しかし、運動会の最中に父は居なくなっていました。

大人になってから、父に「なんであの時、帰っちゃったの?」と聞いたことがあります。そしたら父は「どうやって接したらいいかわからなかった」と言いました。色々なタイプの子がいるので、気軽に話しかけられたり、こっち来てと手を引っ張られても、どういうふうに接したらよいかわからなかったそうです。

成長する中での理解、疑問

中学時代の友人関係はとても良好で、辛さは全然ありませんでした。

しかし、成長するにつれて、世間の障害児に対する見方というのがどういうものかをだんだん理解できるようになってきて、そこに疑問を感じていたし、同じように感じたくない自分もいました。難しい時期だったと思います。

[chapter.07]高校入学。妹が入院。友だちや先生の支え、そして進学に向けて

友だちの母が作ってくれたお弁当

高校の3年間は、妹が命に関わるほどの状態になり入院、母も付き添いでほとんど家にいませんでしたが、友だちにはすごく恵まれていました。

高校は毎日お弁当を持参するのですが、3人兄弟のいる友だちのお母さんが、「由美ちゃんさ、うち1人も2人も変わらないから、明日からお弁当箱持っておいで!」と言ってくれて、3年間、私のお弁当を作ってくれたんです。

本当にいい家族で、その家族に私たち家族も救われたという思いがあります。

将来はどうする?始まる進路相談、私の気持ちを見抜いていた担任

当時、私は学校が終わると病院に寄って、お母さんと妹に会ってから帰宅する生活をずっと続けていましたが、高校生なので家事もある程度でき、生活する上で負担に感じることはあまりありませんでした。

思春期なので、むしろ、うるさいお母さんがいなくてラッキー!みたいな感じで、塾の帰りに父が帰ってくるギリギリまで友だちとコンビニで話したり、高校生活を楽しんでいました。

そんな中、出てくるのが将来どうするかという進路の問題。2年生の夏ぐらいから進路相談が具体的に始まりました。

私はずっと「県内の大学に進みます」と担任の先生に言っていましたが、先生は実は外に出たいという私の気持ちを見抜いていたんですよね。3年間担任が変わらない学校でしたが、2年生の秋に職員室に呼ばれて「本当は外の大学に行きたいでしょ?子どもなんだから、思ったことを親に言っていいんだよ」って言われたんですよ。

家族への思いと自分の気持ちの狭間で…

私の中では、親に心配かけたくない、私に辛いことがあっても親の負担になりたくないという思いがありました。

『きょうだい児』って、親が障害のある兄弟のことですごく頑張っているのを見ているので、自分のことで親にこれ以上の負担をかけたくないという気持ちが、みんなどこかにあるんだと思います。

私もそういう気持ちがすごい強くて、もっと他の家族みたいに出掛けたりしたいなと思った時もありましたが、なかなか言えずにいました。

私が、高校卒業後、県外の大学に進学して家を出てしまったら、父親と母親と妹は、3人でどうやって生活していくだろうと…。

私が高校生の時には、妹は完全に喋れなくなっていて、食事も口から摂れず、胃ろうになっていました。居間に介護用のベッドが置いてあり、そこでお世話をするというスタイルでの生活が始まっていました。

病状もひどく、ほどんど入院。家に帰ってくるのも年に数日くらいしかなく、そんな中で、自分だけが希望を言って外に出てしまうのは、いけないことなんじゃないかなという後ろめたさがあって、「外の大学に行きたい」というのを言えずにいました。

両親からの言葉「あなたの人生なんだから好きにしていいんだよ」

担任の先生から「親は本音で接してくれるのを待ってるから!本当に行きたい大学はここだって親御さんに話していいから!」と背中を押された私は、家に帰って父親に「今日、先生にこんなこと言われて…本当は家を出たいと思ってる」と話しました。

父親は「そうか、頑張れ」と。
母親は「あなたの人生なんだから好きにしていいんだよ」と言ってくれたのがすごく嬉しかったです。

進学をする決意をしてからは、「私は私の人生を生きよう!」と強く決心しました。高校2年生の秋ぐらいのことです。

親の見守りと、支えてくれた人たち

そんな感じで高校生活は、いちばん多感な時期で、思うところもたくさんありました。

でも、当時の私の良いところも悪いところも、親が黙って見守ってくれていたのがすごく良かったなと思います。

もっとかまってくれれば良かったのにと思う自分と、甘えたいけど自立したいと思う自分がいて、すごい中途半端な年頃でしたが、友だちや担任の先生など、家族以外にサポートしてくれた人たちの温かさに救われた部分があるかなと思います。

[chapter.08]大学入学。1人暮らしの楽しさと負い目

知らなかった父の転勤

大学入学を機に念願の1人暮らしがスタート!すごく楽しかったです。イェーイみたいな感じで(笑)

引越自体は、入学準備もあったので高校を卒業してすぐの3月でしたが、4月になり、母が「元気?」って電話をくれたんです。「元気だよ!」と言ったら

「お父さんね、4月から単身赴任で東京にいるんだ」

って…。私はその場で泣き崩れました。

転勤のことは、もっと前から決まっていたはずですが、進路を決める段階で私が父の転勤を知っていたら、きっと母と妹だけを残して県外に進学することはできない、「県外への進学はやめる!」って私が言い出すことをわかっていたんだと思います。

単身赴任するって決まっているのに、私には一切そんな素振りも見せず、言わずにいた父と母。ホント…

1人暮らしの楽しさ ≠ 家族に対する負い目

その後は、楽しさと負い目をどこかで同時に抱えていました。

私は浮かれてるけど、家族はやっぱり苦しんでる、大変だなっていうのがあって。親のありがたみやあたたかさ、愛情を感じると同時に、ぷらぷらしないでちゃんと勉強しなきゃ!って自分の引き締めにもなりました。

父とのコミュニケーションで少しずつ…単身赴任でできた父娘の絆

当時、東京まで電車で1時間半くらいの茨城の大学に通っていたので、東京にいる父が時々「ご飯を食べよう」と誘ってくれて、お酒を飲んで、食事をしました。

その時に「小さい頃、なんであの時あんなことしたの?」という話ができたおかげで、今はいい関係になれたかなぁと思います。

この単身赴任の間のコミニケーションがなかったら、私は一生父のことを嫌いなままだったかもしれません。自分も大人になり親の本音を温かく受け止めることができたと思います。

・・・

一方で、妹の病状はどんどん悪化していました。かつて妹と一緒に通っていた養護学校のお友だちの中にも、やっぱり病気が悪化して亡くなられた方もいます。そういう話を母から聞いたり、帰る度にお線香あげに行ったりしながら、元気に生きられている分、自分も精いっぱい生きようという使命感みたいなものはついて回ったような気がします。

・・・

また、短大へ進んだ同じ年代のきょうだい児の女の子は「あなたはこの子の世話をしなければいけないんだから、介護の分野にいきなさい」と言われたそうです。ご家庭によって考え方は色々ありますが、私は好きなことをやらせてもらってありがたいなと改めて思ったのを覚えています

[chapter.09]就職活動。残るか戻るかの葛藤

卒業間近になり出てきた悩みは、やはり就職

就職活動が始まって、県外に残るか、実家に戻るかという選択が、すごく自分の中では難しかったです。

期間限定の大学生活と違い、就職してしまったら、その後、結婚もこっちでするのかなぁ…などいろいろ考えて、地元に戻る同級生も多かったので、すごく迷いました。

たまたま決まった就職先が都内の会社だったので、私は残る選択をして父と母もそれを応援してくれました。

[chapter.10]不安と覚悟の結婚と出産。

夫と出会い結婚、そして横須賀に…

結婚に関しては、障害のある兄弟がいることが、そのきょうだい児たちの結婚の時にハンデになったりするんじゃないかって心配している親御さんもたくさんいらっしゃると思います。

私自身も、家族まるごと愛してくれる人じゃないと一緒になれないなという思いがいつもありましたが、私の家族も含めて面倒みると言ってくれた今の夫と出会い、結婚しました。

出生前診断を巡って母と初めての大喧嘩

私が妊娠した時、生まれてきた子に障害があったらどれだけ大変かをわかっている母は、私に羊水検査や出生前診断を受けるように強く勧めました。

でも、私にしてみたら「受けてどうするの??」という話。「えっ?それで陽性だったらおろすってこと?」って。

「一生ついてまわることだから」と母にはすごく言われ、そこで初めて母と大喧嘩をしました。

私からすると、それは妹のことを否定するようなものだし、今まで家族で築き上げてきた何十年かの苦労や戦いというか、頑張りは何だったのという思いでした。

夫婦で話し合った末に出した結論

私に苦労なく子育てをしてほしいという母の愛情もわかっていましたが、それも踏まえて私は主人とこの問題について深く話し合いました。

そして私たち夫婦が出した答えは、検査をして陰性でした、健常の子でした、それで本当にハッピーなの?ということでした。

障害のある子だけが大変じゃない、健常で生まれてきても大変なことは起こりうる。障害のあるなしではなくて、子どもを育てること、そのものがリスクを背負うものだから、どんな子が生まれてきても、その子がどんなことをしても育てきる、といういう覚悟がなければ、子ども自体を産むべきじゃないよね、という結論に達しました。母にそれを伝えたら、「それくらいの覚悟があるなら大丈夫じゃない?」と言われました。

それを聞いて、母は私の子育てに対する覚悟を試したかったのかなと思いました。

[chapter.11]そして今自分が母となり思うこと

妹がいたから成長できた心

今は3人の子宝に恵まれて、忙しくも楽しく生活をしています。自分が母になって思うことは、障害があった妹だけれども、彼女がいたことで作り上げられた内面の成長、心の成長面が少なからずあったなということ。

母の言葉「苦労は楽しい」

そして、母親に「辛くなかった?」と聞くと「最初、障害があるってわかったときは、本当にどうしよう!って思って、途方に暮れたけど、今はもうひとつの自分の世界を見せてくれたと思って感謝している」と話していました。

母がいつも言っている言葉。

「苦労は楽しいわよー!」と母は明るい口調で言います。「いつもハッピーだと目の前にある小さな幸せが普通になってしまってありがたみは感じない。苦しいことがあるからひとつひとつの小さな結果だったりを嬉しく感じることができる」と。

うちの妹は、喋れなくなっていますが、聞こえてはいるので、私が電話をかけてそれをハンズフリーにして、声が聞こえるようにすると、すごく喜んでくれるそうです。

体調が良いときは、私の声だってわかって「おー」と返事をしたり、そういう小さいことがすごく嬉しいと母は話していました。

子どもたちの素直な反応にびっくり!成長に合った説明

私たち家族が実家に帰ると、居間に寝ている妹に子どもたちが「りかちゃんただいまー!」「元気?」と普通に話しかけています。

子どもたちは、「なんでいつも寝ているのかな?」と思っているんでしょうが、特に説明はしていません。私も母に説明はされたことはなくて、子どもたちにも障害のある妹がどういう状態なのかを理解するのは、子どもたちそれぞれの成長に合わせてで良いのかなと思っていますが、小学校3年生のお姉ちゃんはだいぶわかってきているので、聞かれたら答えるようにしています。

小学校1年生の子は「りかちゃん、いつも寝てるよね!私、りかちゃんみたいになりたくない〜!」とか言うので、本当に「ええー!!そんなこと言っちゃうの??」ってホントびっくりしちゃいましたが、これも彼女の素直な感想なんですよね。6-7歳なので、今はこういう理解度。その時々の成長に応じて、説明をしていこうかなと思っています。

やっぱり小さい頃からの知識、情報が大事!

小さい頃から障害のある子はどういう子なのかを知識情報として正しく知ることは必要なことだと思います。正しい情報があれば偏見もなくなると思います。

今は学校でも『インクルーシブ教育』といって、『共同』『一緒に育っていく』という取り組みをしていますが、一緒に生活をすることで子どもって良くも悪くも、ダイレクトに障害のある子にもどんどん話しかけていきます。

大人は障害のある子にどういう対応をしたらいいか悩んだりすると思いますが、小さい子は障害がある子でも遊びたい!関わりたい!と思ったら、どんどん話しかけていくので、それがその子にとっての刺激になる。

うちの子どもたちは、妹の状況をよくわかっていないので、妹のベッドにダイブをしたり、「こちょこちょしたら笑うかな〜」とか平気でこちょこちょするんです。妹にしてもそんな関わり方って新鮮なのかな、子どもと関わるからこその刺激的な日っていうのがあると思います。初めから障害があるから無理って決めつけずに、どんどん関わっていくことが大事だと思います。

・・・


▲今回、きょうだい児として体験をお話くださったspecial guestの永井由美さん。

とても、明るくほんわかのびやかな永井由美さんの語り口に静かに引き込まれていた参加者の皆さん、最後のフリートークではこらえていた皆さんの思いと涙が溢れました!

・・・

フリートークであふれた参加者の思いと共感

永井さんのお話の後にはフリートークのお時間を取らせていただきました。

参加者は障害児を育てるお母さん、お父さん、そして支援者の方も。
『きょうだい児』に対する様々な思いをお話いただきましたが、みなさんのこみ上げる思いが溢れて止まらない!

フリートークの中でのお話をピックアップさせていただきたいと思います。

チャレンジはして欲しい、でも挑まないで!/支援者・佐藤さんからのメッセージ

「受け入れてくれない人は敵ではない、知らないだけ」

このメッセージを参加者に投げかけた佐藤さんは、横須賀市内で放課後等デイサービス『いちごいちえ』や児童相談支援事業として日々、障害児やご家族の悩みに寄り添っています。

全てが手探り、そして悩みが絶えない私たち障害児の親。
克服しよう、頑張ろう、努力しよう…そんな毎日。
そして時には心ない言葉や目を向けられ、落ち込むこともあると思います。
この言葉に心動かされた参加者が多くいらっしゃいました。


▲支援者として参加された児童デイサービス『いちごいちえ』、相談支援事業をされている佐藤さん(写真右奥・左)と小野さん(右)

夫婦で参加してくれた方の声

ママの発言 今、いちばん下の娘に障害があって、上にお兄ちゃんが2人いるんですが、娘の就学先を考える際にお兄ちゃんにも軽く意見を聞いてみようと思ったら、お兄ちゃんたちも妹の状況をよく理解していて、受け入れ先の学校の状況も踏まえてちゃんと考えてくれていました。

きょうだいのことは、私は親としてすごく心配ではあるんですが、プラスに捉えようと考えていて、障害のある妹が生まれてきたことによって、そうではない兄弟には分からない、いい面もすごくあると思うんですよね。学べることってたくさんあるので、お兄ちゃんたちも思春期なのでいろいろあると思うけど、娘が生まれてきたことには意味があると思って家族の絆はすごく深まったので、そんなふうに捉えようかなと思って。お兄ちゃんたちにも経験というか、プラスになっているのかなって思ってます。

パパの発言 みなさんの思いや素敵な話を聞けて、思わずもらい泣きしてしまいました。娘が障害を持って生まれて、親として教えられたことばかりなので、家族を支えていきたいなという思いが強いのと、みなさんそれぞれ色々な思いがあって、選択肢があると思うんですが、正解はないと思うので、チャレンジしていけたら良いのかなと思いました。

きょうだい児のことも、父親がこんなこと言うと気持ち悪いかもしれませんが、愛を伝えるじゃないですけれども、「わかってるよ!」ということを伝えていけたらなと思いました。

きょうだい児のことを気にかけて悩んでいる私たち親の気持ちは、ちゃんと子どもたちにも伝わってるんじゃないかなって思いました。

・・・

[st-kaiwa1]その他、参加者全員が自分の思いや感想を発言。共感の輪が広がりました。[/st-kaiwa1]

参加者アンケートには親の思いがいっぱい!

皆さんにアンケートにご協力いただき、今回のactの感想やご意見をいただきました。皆さんの様々な思いのつまったアンケートです。

永井さんのお話で印象に残った言葉やエピソードを教えてください。感想もお願いします。

  • いじめられた時、進学を考えた時、高校時代のお弁当…etc。お母様が明るく、永井さんも自然にされていたので、きっと素敵な出会いを引き寄せられたんだと思います。うちの息子(きょうだい)にも味方がたくさんできたらいいなと心から思いました。(さおりん)
  • 小学生の頃、いじめを助けてくれた先生の言葉。(はるたんママ)
  • 担任の先生が話した内容が印象的でした。障害を抱える当事者の方が話していた事と同じでした。私はその思い、教えを基に取り組んでいます。(メガネの相談員)
  • 「子供なんだから甘えていいんだよ」と言ってくれた先生と、「自分の人生なのだから好きなように」と言ってくれた両親がすばらしいと思いました。この先、きょうだい児がそういった場面になったら、同じように言ってあげられる母になりたいなと思います。(ミニ・息子は年長・自閉症)
  • 「苦しいは楽しい」がとても印象的でお母様の明るさや頑張りが伝わりました。そして永井さんの妹さんへの想い、優しさが伝わって心温まりました。(ゆかり)
  • 自身が成長するに伴って出てくる問題、葛藤、トラウマ…『きょうだい児』にしかわからない思い。小学校や高校時代、救いとなる先生の言葉、家族の関係性、自身の結婚、出産…。常にきょうだいのことが人生に深く関係していることを感じました。(恵心 佐藤)
  • まず衝撃だったのが、妹さんに障害があると分かった時、周りがあいさつをしなくなったというのが、本当に信じられない事実でした。由美さんのご両親が県外に進学したいといった時に「がんばりなさい」「あなたの人生だから好きにしていいのよ」と言われたことが、本当に素晴らしく、子を持つ母として、子どもはどこにいても幸せでいてくれたらいい、という想いを後押ししてくれました。由美さんが様々な人に出会い、経験されてきたことが、今の素敵な由美さんをつくり上げてきたのだな、とつくづく感じました。(mica)
  • 小学校の時に出会えた先生が読んでくれた本。私も読んでみたいです。全てが個性なのかな…って。とても素敵な親子だなって思います。その環境で育ってきた由美さんだからこそ、今の由美さんの原点なんだと思うし、明るさなのかなって…。
  • 永井さんのやさしさとあたたかさが溢れているのを感じながら聞かせていただきました。持って生まれた朗らかさもあるのでしょうが、誰もがそういう受け止め方をできる訳でもなく、どんな状況にあっても前向きでいる永井さんを、すごいなと尊敬の思いです。
  • 先生達のお話。親とかではなく、他の人からの言葉や救いの手が素直に聞き入れる感じなのかなぁと。とてもありがたいなと親目線では思いました。
  • 障害を持つ妹がいて、それが自分の家族、それが当たり前だと思っていたという言葉。ずっと一緒に生きてきた、それが自分にとって当たり前だった、その言葉、その想いにご両親はどれだけ救われたことと思います。

フリートークで印象に残った話題やエピソードはありますか。

  • 永井さんのお子さんたちが、おばさまである妹さんに接する態度、とても素敵だと思いました。おばさまのことを、まるごと当たり前に受け入れているってことですもんね。遠くに離れて住んでいてもそういう気持ちが育つのって、永井さんが自然体だから、永井さんとご実家との絆ゆえだと思いました。「受け入れてくれない人は敵ではない、知らないだけ」・・・名言です。肝に銘じようと思いました。「チャレンジはいいけど、挑まないこと。抱え込まないこと。」(さおりん)
  • 五本木さんの息子さんの妹を想っての学校のお友達への根回しが、とてもかわいらしく感じました。「オレの妹入学するからよろしく!」的なやつ。そして、地域への自然な関わりへの一番の近道だなと思いました。(はるたんママ)
  • 五本木さんのお子さんの兄妹愛がすばらしいと思いました。私もみんな違ってみんないいって言葉大好きです。(ねこねこ・息子は小2、年中・発達障害)
  • 子どもは正直がゆえに残酷ではあるが、気がつかされる事が沢山ある事を再認識できました。(メガネの相談員)
  • みなさんやはりきょうだい児の事は、心配や不安でいっぱいなのだと思いました。けれど、永井さんの話を聞いて、その時その時でちゃんと家族で乗り越えていけるのだなと思いました。(ミニ・息子は年長・自閉症)
  • 永井さんのお話もみなさんのお話も涙が止まらず共感し合えました。(ゆかり)
  • 親の思い→地域に出すべきか出さないべきか…。親の不安や葛藤、何が正しいのか分からずに進む毎日をお母さんも感じているのだと思いました。(恵心 佐藤)
  • 障害を持つお子さんのお母さん、兄弟の葛藤を聞かせていただき、それぞれの立場や年齢で障害の受け止め方や接し方も違うことを知りました。ひとつの答えはなく、それぞれの家庭でのやり方でよいのだと思います。「抱えず、挑まず」という言葉が印象的でした。(mica)
  • みなさん1人1人考えている事、悩み、得た事、全てうなずけて、自分自身色々考えさせられた。
  • 「チャレンジはいいけど挑まないで」の言葉。
  • 母として、こうしてあげたい、こうでありたい、こうしなければ、と知らず知らずに抱え込んでいたのかもしれないと思いました。「チャレンジすることは良い、挑まななくて良い」とても心に響きました。

『きょうだい児』について、具体的なエピソードや思いがあればお聞かせください。

  • 6歳のお兄ちゃんの保育園の出来事。クラスにお兄ちゃんのことを好きだと言う女の子がいます。「大きくなったら結婚しよう」と言っていました。ある日その子がお兄ちゃんに「やっぱり結婚できなくなったの。だって、首にもう一つ口がある赤ちゃん生まれちゃうから」と言いました。下の子(気切っ子)の事を言っているのだと思いました。その女の子は、親に〔障害児のいる家系と結婚すると遺伝する〕という教育をされているという現実を知りました。(R)
  • 息子が年少の時、初めて「お姉ちゃんといっしょに出かけたくない」と言われてビックリしたことがありました。3才なりに、姉と一緒だと、ママと公園で鬼ごっこやかけっこ、ボール遊びができなくて嫌だったとのこと。ギョッとしましたが、息子の初めての心の声の表出にうれしく思いました。小2の今、地域小に通う息子は、参観日などで母と姉が来校する前に、いじめそうなクラスの強い子に「オラのお姉ちゃん、目が見えないんだからいじわる言うなよ。」と釘を刺しておいてくれているらしいです(笑)そうそう、24HTVを見ながら息子に「お姉ちゃんはかわいそうだと思う?」と聞いたら「ぜーんぜん。だって見えないだけじゃん。」と言っていました(笑)本質だと思います(笑)(さおりん)
  • 赤ちゃん(←障がいのある息子にとっての妹)が生まれてから、一緒にハイハイごっこをして遊んだりしている中で、「妹がいてくれて楽しい」といった。他人と交わって遊ぶ社会体験にもなっているかな?と思っています。1歳半の娘が兄のパニック時に「いい子いい子」してあげたり、とても助かる強い存在です。(はるたんママ)
  • 私自身は分からないのですが、息子たちをみていると、障害のあるなしにかかわらず、兄は弟を、弟は兄を守ろうとする様子があり、ほほえましく思います。(ねこねこ・息子は小2、年中・発達障害)
  • 自分は親せき児でした。母の姉の子供が障がいをかかえている人でした。一緒に遊ぶ事も多く、トイレに連れていったり等の手伝いも私がしていました。違和感を少しは感じていましたが、楽しかった思い出の方が多いです。その頃の体験は今の自分を作っている基になっていると思います。(メガネの相談員)
  • 順番を守れないの弟の事を「お兄ちゃんなんだから、何とかして!!」って責められていて、小さな体で一生懸命弟を抱えて引きずり出している姿を見て胸がしめつけられましたが、兄はそれを当たり前と思ってやったそうです。親としては複雑です。(ミニ・息子は年長・自閉症)
  • まだ幼い2人なので自然なサポートが出来ている弟を見るとスゴいなぁと思います。これから集団社会へ出て初めて外との壁があるのかもしれないけれど本人(弟)をフォローしながら乗り越えてほしいです。(ゆかり)
  • 私が、以前関わりのあった「きょうだい児」が言っていた言葉。「お兄ちゃんが障害者で良かった。だって普通の人にはできない経験を僕はいっぱいしているでしょ。」支援者として救われた言葉でした。(恵心 佐藤)
  • きょうだいではないけれど思い出したことが。中学生の時、集会で全校生徒が整列する中、奇声をあげながら跳びはねてしまう同級生がいた。列から大きくはずれてしまったので、並ぶところに戻れるように、と何気なく「こっちだよ、分かる?」と声をかけた時「わかる、わかる」と一本調子の独特の言い方ながら答えてくれた。そして返事をしてくれたこと、返事ができると思っていなかったことに気付いた自分がいて驚いた。やっぱり触れ合ってこそ分かることってたくさんあると思うんです。
  • みなさんのお話は、子供が騒いで退出してしまい聞けず残念でした。4才下の妹(健常)に頼らずいけたらいいなと思って。
  • 兄弟それぞれが、ありのままでいられること。当たり前のことかもしれませんが、それが何より大切で幸せであるということを感じました。

今回のactはいかがでしたか?

  • 貴重なお話を伺えて本当に良かったです。大人になったきょうだいのお話を聞く機会がなかなかなく、自分の子供はまだ心の内の細かな話ができないので(小2男子)、親の感情ときょうだいの気持ち、いろいろ感じることができて良かったです。(さおりん)
  • 初めて参加したので、緊張しました。(ねこねこ・息子は小2、年中・発達障害)
  • 美味しいコーヒーありがとうございました。(メガネの相談員)
  • 今日は同じ悩みを抱えている事が分かり良かったです。(鴨居3年)
  • 気持ちが楽になりました。(ミニ・息子は年長・自閉症)
  • 当事者からのお話しとても貴重で涙が止まりませんでした。素敵なお話しありがとうございました。(ゆかり)
  • 私は何も知らない。知らないからこそ知ろうと努力します。本人だけではない想い。大切にします。(恵心 佐藤)
  • きょうだい児という、これまでに聞くことのなかった貴重なお話を聞かせていただけて良かったです。(mica)
  • とても色々考え、とても楽しい時間でした。得る事の多い時間でした。
  • ずっと泣きっぱなしでした。持ち物に『タオル』を加えた方がいいかも!?
  • 子供が騒いでしまい申し訳なかったですが、のびのびした感じでありがたかったです。
  • 普段なかなかクローズアップされないことが多いテーマだったので、お話を聞くことができ、とても良かったです。

[st-kaiwa1]アンケートへのご協力、貴重なご意見ありがとうございました![/st-kaiwa1]


▲こちら、会場となったサンライズホールの隣の託児室の様子。ママたちがお話を聞いている間、のびのび過ごしました!

ゆったりとコーヒーブレイク!皆さんにくつろいでいただきたいから・・・


▲sukasuka-ippoネームボード!手作りです♪

皆さんにゆったりとくつろいでトークを楽しんでもらいたい…、今回のsukasuka-actでは、カフェをイメージしてコーヒーとお菓子をご提供させていただきました。

今回のコーヒーは、コーヒーアドバイザーの資格をもつsukasuka-ippoメンバー・ゆかねこのオリジナルブレンド!
豆は、深煎り・コロンビア、中煎り・キリマンジャロ、ブルンジの3種類。
程よい苦味と酸味のあるスッキリとした飲み口で、爽やかさとコクのバランスの良いコーヒーでした。

皆さんにもご好評いただきました!

 


▲コーヒー抽出中のメンバーゆかねこ。真心込めてご提供いたします。


▲『長沢ベーカリー』のパンダクッキー、程よい甘さとバター風味のサクサククッキーです!
当日こちらをお茶うけとしてご用意させていただきました。

以前取材させていただきました 『長沢ベーカリー』/ 横須賀 こちらの記事もご覧ください。


▲こちらフリートーク中の様子。和やかな雰囲気の中コーヒーを楽しみながら、皆さんお話をされています。

sukasuka-ippo代表・五本木愛の視点

今回のactは、昨年の9月にトークテーマで取り上げた 『きょうだい児、今日はきみの話をしてくるよ』の第2弾。ご自身がきょうだい児である永井 由美さんをゲストにお迎えし、時系列で幼少期から母になった現在まで、その時に感じていた想いや考えなどをお話してくださいました。

私たち障害児の保護者はどうしても親としての目線でしか考えられず、きょうだい児に対して負担や申し訳なさを感じていることが多いように思います。

我が子には、自由に好きな人生を歩んで欲しい。障害のあるきょうだいの事は心配しなくて大丈夫だよ!と言ってあげたい…と、思う親心。しかし、きょうだい児である永井さんに『大好きなきょうだいなのだから、心配しないわけがない』『きょうだいが障害があることは、普通にあたりまえのこと』と、言われ思わず涙が溢れてしまいました。

永井さんには貴重な体験談をお話いただき、感謝いたします。

・・・

2017.06.23
sukasuka-act『きょうだい児、今日もきみの話をしてくるよ』
special guest/ 永井由美さん
参加者/ 16名
託児利用/ 4名
写真・加工/ pototon・うさぎのめろん
テープ起こし/ reiko・kayoko
アンケート集計/ ゆっぴー
文・構成/ うさぎのめろん
編集/takeshima satoko

The following two tabs change content below.
sukasuka-ippo

sukasuka-ippo

『自分たちが足りないと思うこと、欲しいと思うものを自分たちで作り上げていく』を現実に!夢を1つずつ叶えるために!
タイトルとURLをコピーしました