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【手記】辛くて苦しい紆余曲折、学びも大きかった受け入れまでの日々/娘は5歳・知的障害を伴う自閉症スペクトラム by mina

結婚10年目にようやく授かったひとり娘は、歌とダンス、you tube、ドキンちゃん、プリキュアが大好きな5歳・年長児で、知的障害を伴う自閉症スペクトラムと診断されています。

療育相談センターの通園部門(ひまわり園)と幼稚園の並行通園をしています。夫と3人家族です。

トラブル続きの妊娠期間中

妊娠期間中は出産直前まで悪阻(つわり)に苦しみ、卵巣の病気、妊娠糖尿病とトラブルの連続で、東日本大震災もあって、大変な10か月でした。

妊娠前より痩せて体力がなくなったことで、お産自体も出血が多く、時間もかかって大変でしたが、産声を聞いた時は元気に生まれてきてくれた嬉しさと、「やっと終わった~!」という安堵感から号泣し、そして、無事に生まれることは当たり前ではなく、奇跡の連続なんだとありがたく思ったことをよく覚えています。

生まれた日からよく泣く娘。辛い子育ての中で娘の天使のような可愛さに癒される日々

娘は生まれた日からよく泣く子で、

泣く

新生児室に呼ばれる

授乳・オムツ交換・寝かしつける

病室に戻りウトウトするとまたすぐに泣いて呼ばれる

…の繰り返しでした。

退院後もそれは変わらず、寝入ったのを見計らって布団に降ろしてもすぐに泣いてしまうので一日中、抱っこでした。
幸い私自身は食欲が戻り、病気は完治しましたが、夫は帰りが遅く、近くに頼れる人もおらず、今度は長引く傷の痛みと睡眠不足、月1ペースの乳腺炎に苦しみ、子育てってつらいな、世のお母さんてこんなに大変な思いで育てて、しかも2人・3人とかすごいな!あり得ない!などと思っていました。

それでも娘が天使かと思うほど可愛くて、授乳中にじーっと見てくる顔や、ふにゃっとした笑顔、甘い匂いに癒されながらなんとか頑張れました。

1歳までは順調、違和感を覚えたのは1歳3か月。あれ、指さししない?ママって言わない?

0歳時点での発達は、4か月で首が据わり、寝返りやお座りはほとんどせずにハイハイを始め、つかまり立ちも上手で。1歳過ぎに歩き始め、離乳食もわりと何でもよく食べ、バイバイを覚えたり、後追いもして、順調だったと思います。

最初に違和感を覚えたのは1歳3か月くらいでした。

  • そういえば指さしをしないな
  • わんわん、パパは言うけどママって言わないな
  • 名前を呼んでも半分くらいは振り向かないな
  • 目線は合うし、いないいないばあをすると喜ぶけど、「(おもちゃ)ちょうだい」と言っても渡さないなど、やりとりができないな

といった感じでしたが、きっとゆっくり成長するタイプなんだなと思って、あまり気にしていませんでした。

1歳半健診でも指さしや積み木をしなかったので、念のため言葉の遅れも気になると相談し、経過観察となりました。

2語文が出始めるも、偏りやこだわりが出てきた2歳過ぎ

2歳過ぎにはごくたまーに2語文も出て、『ママ』もようやく言ってくれてとても嬉しかったのですが、遊びといえば

  • こちょこちょする
  • 私が追いかけて逃げるのを楽しむ(追いかける役はしない)
  • 一緒に歌って踊る

などに偏っていて、

  • 折り紙は破る
  • 絵本もすぐに破るかおしまいと閉じてしまう
  • お絵かきやシール貼りも苦手
  • そもそも座っていられない
  • 偏食もひどくなった
  • 色や場所へのこだわりが出てきた
  • おもちゃも音が鳴ったり光ったりするものだけ
  • おままごとなどのごっこ遊びやかくれんぼなどルールのある遊びができない
  • 片付けも苦手
  • 公園に行って体を動かすのは好きだけど、同じくらいの歳の子に会っても興味がなく一緒には遊ばない

といった感じで、だんだんひとり遊びをすることが多くなり、家で2人で遊ぶことにも限界を感じていました。

言葉も会話というよりTVのうたのお姉さんのセリフ、YouTuberのおもちゃを紹介する動画のセリフを延々と繰り返しつぶやいたり、ひたすら歌ったりしていましたが、記憶力がいいのか100曲くらいは軽く歌えたので不安に思いながらも天才タイプ?とポジティブに考えたりもしていました。

でも、やっぱり

  • 買い物に行けば「ストップ!」と言っても手を離すとどこかに消えてしまう
  • 名詞はすぐに覚えるけど場所や動詞を覚えない
  • 「どれ?」「なに?」など質問しても理解しているのかいないのか返事がない

など、やりとりが一方通行というか通じ合ってる感じがあまりしませんでした。

だんだん不安になって2人の子どもを育てている遠方に住む4つ上の姉に話を聞いてもらったりしましたが、甥っ子も言葉がゆっくりでしたし、初めての子育てで基準が分からず、育てにくいなとは思っていましたが個人差の大きい時期だし、みんなこんな感じなのかな頑張りが足りないかなと思っていました。今思えば、のんきに構えていたというか、もしかしたら何かあると認めたくなかったのかも知れません。

2歳半、保健師さんからの電話で相談

2歳半の時に、保健師さんからお電話をもらい、

  • 自分の世界が強く、少し違和感があること
  • 娘はすごく可愛いしたくさん遊んであげたいけれど、うまく遊べなくて困っている

とお伝えすると心理士さんを紹介してくださり、面談後に簡単な検査を受けました。その時は

「明らかに何かあるとはいえないけれど、癇癪を起こすタイプかも…」

とやんわり言われました。きっと、あの時の心理士さんはわかっていたのでしょうね。

週1回のカンガルー教室でも大泣き

その後、すぐに週1回のカンガルー教室に通いました。

そこでも

  • 椅子に座れない
  • おもちゃもすぐに飽きてしまう
  • クルクル回ったり、走ったりとにかく落ち着きがない
  • お友達とも関わろうとしない

などの行動で、カンガルー教室でもダントツに浮いていました。(笑)

ある日のカンガルー教室で、母子分離の時間があったのですが、ギャーっと泣いて抗議したので分離できませんでした。

すると今度は泣き疲れて眠くなり、寝るのが嫌いで怖がる娘は、眠気を飛ばそうとしてとにかく走りまくって、私や保育士さんが制止しようとしても聞こえていないのか止まりませんでした。

その様子を見た保健師さんから療育相談センターの受診を勧められました。その時はさすがに何かあるのかなと不安に思いましたが、深刻なものではないだろうと夫とも話していました。今思うと、ほんとに楽観的(笑)

2歳11ヵ月でついた診断、そして重すぎる喪失感

その後療育相談センターで発達検査を受け、2歳11か月で知的障害を伴う自閉症スペクトラムと診断されました。

全く想像していなかったわけではありませんが、

  • 一生治らない
  • 健常児に追いつくこともない

と聞いて涙が出ました。血の気がザーーっと引いていく感じがしました。

帰宅して息もできないくらいおいおい泣きました。

なんで?どうして娘が?学校は?結婚は?仕事は?親亡き後1人でどうやって生きていく?

将来を思うと絶望しかありませんでした。大きくなったら一緒に買い物に行ったり、ゆくゆくは孫ができたりするのかなというごくごく普通の夢も叶わないのかなと…。

健常だったはずの娘をなくしてしまったような、ある種の喪失感を感じ、なんとも言えない気持ちでした。

娘に対しても

健常に産んであげられなくてごめんね
もっと早く気付いてあげられなくてごめんね
今までうまく遊んであげられなくてごめんね

…と、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

そして、ここに書いていいのか分かりませんが、近くに親戚もいないし、私たち親が70代になってまだ身体が動くうちに心中しようかなとまで考えました。でも楽に逝ける方法も思いつかず、何より娘といえども私とは別人格、娘の人生は娘のもの、勝手にどうこうできないなと思いとどまりました。

正直、気持ちが落ち着くことはしばらくありませんでした。毎晩泣いていました。ふとした瞬間に涙が溢れました。

でも泣いてばかりもいられず、翌月には仕事を始める予定で保育園の慣らし保育に行っていたので、このまま受け入れてもらえるのか相談に行きましたが、前例がないからと通園を拒否されました。

それもショックでしたが、母子分離で娘がパニックになり、自傷行為も見られたので、他に入れそうな保育園があるはずもなく仕事は諦めました。

泣きながらもとにかく娘の障害について観察&勉強

そして、どう育てていいか分からなくなってしまったので、泣きながらネットで情報収集し、関連本を読み、とにかく勉強しました。

娘の行動も細かく観察・分析し、対応について試行錯誤しました。

診断から2か月後、週1回の早期療育の教室(ペンギン教室)に親子で通い始めました。ペンギン教室では、先生の娘に対する関わり方を観察して、家でも同じように声掛けしたり、遊びやおもちゃも参考にしました。

同時に月1回の心理相談も始まり、こんな時の対応はどうしたらいいですかとたくさん質問しました。

特性や関わり方を理解しながら紆余曲折の1年間

特性や関わり方がわかってくると、

  • 発達年齢が3歳くらいになるまでは「かわいい!かわいい!」と言って育てようと思うようになりました。
  • よその子と比べて落ち込むのをやめました。
  • できそうにないことをさせるのもやめて、楽しく取り組めること、できそうなことを探しました。

声掛けは特に気を付けました。

  • ダメなことはダメですが、細かいことを否定形で注意して自信をなくしてしまわないよう、「走らない!」ではなく「歩くよ」と伝える。
  • 擬音語を多用して、とにかく本人にわかるように、伝わるように話しかけました。
  • 2語文で話してくれた時は、1つ多い3語文で返し、ママにもちゃんと伝わってることを示しました。

私自身にとってもかなり日本語の勉強になりました。(笑)

まだまだ受け入れられない自分自身がイヤになることも多かったのですが、

  • 受け入れられなくて当たり前
  • うまく関われなくて当然
  • 泣いてもオーケー
  • 自分もスモールステップでやっていこう

と決めました。そう思えるまでには1年くらいかかりました。

その1年の間に、

  • 今までの人生がいかに幸せだったか
  • 日々の何気ない生活、病気や障害があってもなくても生きていることそのものが幸せなこと。ありがたいな
  • 一瞬一瞬を大切に何でも楽しんでいこう

と思えるようになりました。

娘に障害がなかったらこんな風に思えなかったでしょう。親としても一人の人間としても娘に教えられ成長させてもらった気がします。

 

3歳半、ひまわり園入園。週2回の親子通園からスタート

3歳半、年少でひまわり園に入園すると、週2回の親子通園が始まりました。

入園式当日は早速1時間くらいの母子分離があったのですが、不安感が強い娘はずっと号泣していたようで、ひまわり園はママがいなくなるイヤな場所認定されてしまったようです。(笑)

そこからなかなか切り替えができず、1学期は登園を渋り、クラスで1人だけ分離もできずにいました。分離ができるようになったのは夏休み直前でした。

次年度は幼稚園との並行通園を目指していたので、ひまわり園入園後にすぐに幼稚園の見学やお遊び会に行ったりと、私自身も忙しく過ごしていたのですが、娘の通園拒否という苦い経験もあっていろいろ心配しすぎたのとそれまでの心労もあったのでしょう、2学期の途中で体調を崩してしまいました。

1か月ほど療養し、その間の通園は夫が行っていましたが、この経験でまた改めて、心と体は繋がっているのだと気づかされ、自分の体調、メンタルな部分も大事にしようと思いました。

夫にとっても普段の娘の様子や娘なりの成長がみられて嬉しかったのと、私の大変さをわかってくれたようで、その時は辛かったですが結果的には良かったのだと思いました。

出会いがいっぱい!障害を持つ子の母同士、分かり合えることの喜び

そして、ペンギン教室、ひまわり園ではたくさんのママさん達と出会うことができました。

特にひまわり園の親子クラスでは、お昼休憩の1時間を一緒に過ごすので、初めの頃こそぎこちなかったのですが、程度は違ってもみんな障害を持つ子の母同士、すぐに打ち解けられました。

それまで塞ぎこんでしまうことが多かったので、何でもない日常会話が楽しかったですし、悩みを話して共感し合うことで気持ちが楽になっていったような気がします。今でも時々集まって息抜きしています。

1年間、渋々ながらも通っていた娘でしたが、椅子に座っていられる時間が長くなったり、絵カードを見ながら着替えを頑張ってくれて、娘なりの成長をみせてくれました。

給食はずーっと1口も食べてくれませんでしたが、3学期に1度だけ、母子分離の日に鮭を一切れ食べてくれて、本当にうれしかったです。

年中で併行通園開始。嫌がる幼稚園とほかの保護者の方への説明

年中になるとひまわり園の単独通園と幼稚園との並行通園が始まりました。

  • 渋々通っていたのが嘘のようにひまわり園はすごく楽しそうに通うようになりました
  • 先生やクラスのお友だちの名前を覚えたり、マネをしたりするようになりました。
  • 給食も白米だけは食べるようになりました。
  • おしっこも、急にトイレに行くようになって、すぐに自立しました。

できることが増えたのはもちろん嬉しかったですが、何より楽しそうに通うようになったことが本当に嬉しかったです。

ただ、ひまわり園に楽しく通えるようになった代わりに、新しい環境に慣れにくい娘は幼稚園に行くのを渋りました。

入園式では白いソックスがイヤだと泣き、バスに乗るときは私にしがみついて泣きましたが、ひまわり園の先生に幼稚園の入園のサポートもしていただき、その後はわりとすぐに慣れました。

この時期は他害が出始めたこともあって、クラスのお友だちの保護者の方々に娘のことをどう説明しようか悩みました。

  • 「どいて」と言えないから押してしまう
  • 悪ふざけで砂をかけてしまう

など、娘なりに理由はあるにしても、好ましくない行動が時々ありました。

そこで、少なくともこういう子がいるということは知っておいてもらったほうが良いと考え、クラス会の時にほかの保護者の方に娘のことをお話しすることにしました。

ただ、一口に「自閉症です」と言っても、テレビで見た印象しかなかったり、どういう感じかピンと来ないだろうなと思ったので、園長先生と相談して

  • 成長がゆっくりなこと
  • 言葉の理解や会話が苦手なこと
  • 手先が不器用なこと
  • こだわりがあること
  • 週に3回はひまわり園に通っていること

など、娘の特性を中心にお話ししました。

たくさんの方を目の前にして娘の現状を口にすると、まだまだ受け入れられない自分がいて、改めて現実を突きつけられるような、思い知らされるような気がして泣きそうでしたが、泣くと次の言葉が出てこない気がしたのでぐっとこらえて話しました。

この幼稚園入園時のクラス会は、ひまわり園の他のママさんも胃が痛いと言っていて、障害児をもつママさんあるあるなんだなと思うと少し気持ちが楽になりました。

年長の今。泣かずに話せるようになり、そして未来へ…

現在、娘はもうすぐ6歳、年長になりました。

幼稚園とひまわり園の並行通園を続けています。

  • 作業療法と長期休みはデイサービスにも通い始め、娘なりに成長しました。
  • 就学に向けてうんちもトイレで練習中です。
  • 偏食もこだわりもまだまだ満載ですが、ことばの理解が進み、癇癪が減り、順番待ちも少しならできるようになりました。
  • おふざけが過ぎて、鬼の形相で叱ることもありますが、プリキュアの曲を歌いながら完コピで踊ってドヤ顔したり、寝る前に「お鼻ぴたー」といいながら、顔をくっつけてくるときなど、たまらなく可愛いです。

思えば診断されてから、泣かないで娘のことを話せるようになるまで2年もかかりました。その2年がとてつもなく長かったです。先が真っ暗になって、見えな過ぎて辛かったです。

でも、ひまわり園や幼稚園の先生をはじめいろんな方の支援があって、ここまで来られました。本当に感謝しています。

これから先も就学・就職など、節目節目で悩み、苦しむかもしれません。親亡き後の生活も心配です。でも、遠い将来を見据え、できることは少しづずやっていき、まずは目の前の課題をひとつひとつ時間はかかってもクリアできたらなと思っています。

最終的には人の手を借りながらでも親元を離れ、自立してくれることが願いです。
そして、少しでも健康に長生きをして、娘を見守っていくことが今の私の目標です。

2017.09
ゲスト投稿者/ mina

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『自分たちが足りないと思うこと、欲しいと思うものを自分たちで作り上げていく』を現実に!夢を1つずつ叶えるために!
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